和学講談所 (わがくこうだんじょ)
【概説】
盲目の国学者である塙保己一が、江戸幕府の公認と保護を得て江戸に設立した和学(日本の古典・歴史学)の研究・教育機関。日本の貴重な古典や古文書の散逸を防ぐため、大規模な史料編纂事業を行い、学術の発展に大きく貢献した。
設立の背景と幕府の公認
幼少期に失明した塙保己一は、学問を志して江戸に出て、国学者である賀茂真淵らに師事した。保己一は日本の貴重な古典や史料が時とともに散逸していく現状を憂慮し、それらを組織的に収集・保存・校訂するための学問所の設立を目指した。
1793(寛政5)年、保己一の請願は、当時寛政の改革を推進していた老中・松平定信によって認められた。幕府は江戸の四谷(後に番町に移転)に用地を与え、運営資金として年米を支給するなど、これを公的に保護した。儒学の研究・教育機関である昌平坂学問所(昌平黌)が幕府の直轄であったのに対し、和学講談所は幕府の保護を受けつつも保己一が主宰する独自の形態をとった。これにより、それまで個人の私塾やネットワークに依存していた国学(和学)の研究が、国家的な事業として位置づけられる契機となった。
『群書類従』の編纂と歴史的意義
和学講談所の最大の功績は、保己一の主導による一大史料叢書である『群書類従』の編纂・刊行である。古代から近世初期に至るまでの日本の文献、学術書、日記、文学作品など1270余種におよぶ貴重な史料を収集し、25の部門に分類・校訂して出版した。保己一の没後もその意志は継がれ、後に『続群書類従』の編纂へとつながった。
この事業によって、それまで個人蔵や社寺に秘蔵されて散逸の危機にあった多くの古典籍が校訂・複写され、永久に保存されることとなった。和学講談所が行った徹底的な文献の考証と、木版印刷による出版・普及の試みは、近世における和学・国学の発展に決定的な影響を与えた。また、明治維新後にこの機関は廃止されるものの、その収集史料や学問精神は東京大学史料編纂所などの近代的な歴史学研究機関に受け継がれ、現在の日本史研究の強固な基礎を築くこととなった。