東廻り海運 (ひがしまわりかいうん)
【概説】
江戸時代前期、幕府の命を受けた河村瑞賢によって整備された、奥羽(東北)地方の年貢米などを太平洋岸を通って直接江戸へ輸送する海上航路。巨大消費都市・江戸への安定的かつ大規模な物資輸送を可能にし、全国的な流通網の形成に大きく寄与した。翌年に整備された西廻り海運とともに、幕藩体制下の経済を支える大動脈となった。
江戸の人口急増と年貢米輸送の課題
江戸時代前期、幕府の所在地である江戸は急激に人口が増加し、17世紀後半には武士と町人を合わせて約100万人を擁する世界有数の巨大消費都市へと成長していた。これに伴い、膨大な人口を支えるための食糧、とりわけ米の安定的な供給が幕府にとって焦眉の急となっていた。
当時、奥羽(東北)地方は有数の米どころであり、幕府の直轄領(天領)も多く存在していた。しかし、奥羽から江戸への年貢米輸送は、各浦の商人や船頭に個別で委託される不確実なものであった。海難事故による積荷の損失や運賃の高騰、さらには中継地での不正な米の抜き取りなどが横行しており、幕府は安全かつ効率的で、公的な統制の行き届いた輸送ルートの確立を迫られていたのである。
河村瑞賢による抜本的な整備
1671年(寛文11年)、幕府(老中の稲葉正則ら)は、土木工事や材木商として手腕を発揮していた江戸の豪商・河村瑞賢に、奥羽からの官米輸送ルートの抜本的な整備を命じた。
瑞賢は単に航路を指定するだけでなく、流通システム全体を改革した。まず、奥羽の年貢米を阿武隈川河口の荒浜などの主要な港に集積させ、そこから大型の廻船で太平洋岸を南下するルートを定めた。さらに、航海上の寄港地(那珂湊や銚子など)を整備して入港税を免除したほか、優秀な船頭を幕府の御用船頭として登用し、航海中の水主(船乗り)の給与規定や海難時の補償ルールまで細かく定めた。これにより、輸送コストの大幅な削減と安全性・確実性の飛躍的な向上が実現したのである。
房総半島の難所と航路の変遷
東廻り海運の最大の難所は、房総半島沖の犬吠埼周辺であった。海流が複雑で暗礁も多く、当時の航海技術では遭難の危険性が極めて高かった。
そのため、瑞賢が初期に整備したルートでは、船は利根川河口の銚子で積荷を下ろし、そこから高瀬舟などの川舟に積み替えて利根川・江戸川という内陸水運を利用して江戸へ運ぶ方法が主に採られた。しかし、江戸時代中期以降になり、船の大型化(弁才船の普及)や航海術の進歩が進むと、あえて危険な銚子沖を大きく迂回し、房総半島をぐるりと大回りして直接江戸湾(品川や江戸湊)に乗り入れる外海ルートが主流となっていった。
西廻り海運との並立と全国市場の統合
東廻り海運が整備された翌年の1672年(寛文12年)、河村瑞賢は出羽国(山形県)の最上川水系などから日本海側を南下し、下関を回って瀬戸内海から大坂へと至る西廻り海運をも整備した。
江戸へ直結する「東廻り海運」と、天下の台所・大坂へ直結する「西廻り海運」という2つの巨大な海上交通網が確立されたことは、日本経済史において画期的な出来事であった。これらは単なる年貢米の輸送路にとどまらず、東北地方の特産品や、上方からの下りもの(日用品や加工品)を全国に行き渡らせる大動脈として機能した。東廻り海運の成立は、鎖国体制下における国内市場の統合と、全国的な商品流通経済の発展を強力に推し進める原動力となったのである。