札差(蔵宿) (ふださし(くらやど)
【概説】
江戸の浅草御蔵の周辺に居住し、幕臣である旗本・御家人の蔵米の受け取りや売却を代行した商人。次第に支給予定の蔵米を担保とした高利貸しを営むようになり、江戸時代中後期には巨万の富を蓄積した。幕臣の経済的困窮を招いた一方で、江戸の町人文化の有力なパトロンとしても活躍した。
蔵米支給制度と札差の誕生
江戸幕府の家臣団である旗本・御家人のうち、知行地(領地)を持たない小禄の者たちは「蔵米取り」と呼ばれ、幕府から現物支給の米(蔵米)を俸禄として受け取っていた。蔵米は、江戸の隅田川沿いに設けられた浅草御蔵(現在の東京都台東区蔵前周辺)において、春・夏・冬の年3回に分けて支給された。しかし、武士にとって重い米俵を受け取り、それを運搬して米問屋に売却し換金する手続きは非常に煩雑であった。そこで、受取手形である「札」を竹串に挟んで御蔵の藁束に「差す」ことで順番待ちや受取・売却を代行する商人が現れた。これが「札差」の起源である。なお、大坂において諸藩の蔵屋敷で同様の業務を行った商人は「蔵宿(くらやど)」と呼ばれた。
高利貸しによる巨万の富の蓄積
初期の札差は手数料(札差料)を取って米の受取と売却を行う単なる代行業者であったが、物価の上昇や都市生活の派手化によって幕臣が困窮し始めると、その性格を大きく変えていく。札差は、将来支給される予定の蔵米を担保にして現金を貸し付ける金融業者(高利貸し)へと変貌したのである。蔵米が支給されると、札差は真っ先に元金と高額な利子を天引きしたため、確実な債権回収が可能であった。享保9年(1724年)、札差は幕府の許可を得て109軒で株仲間を結成し、営業の独占権と特権的な地位を確立した。これにより彼らは江戸屈指の豪商へと成長し、その経済力は幕府の屋台骨である幕臣の生殺与奪を握るほど強大なものとなった。
幕政改革と棄捐令による打撃
札差が繁栄を極める一方で、借金雪だるまに陥った旗本・御家人の生活は破綻寸前となり、幕府の軍役や役方(行政)を支える武士階級の没落という深刻な社会問題を引き起こした。これを重く見た幕府は、武士の救済策としてたびたび借金取り消し令を発布した。中でも、寛政の改革において老中・松平定信が寛政元年(1789年)に出した「棄捐令(きえんれい)」は歴史的に名高い。これは、過去6年以前の借金を帳消しにし、それ以降の借金の利子も大幅に引き下げるという強力な徳政令であった。これにより札差は甚大な経済的打撃を受け、廃業や倒産に追い込まれる者が続出した。しかし、結果として札差が新たな貸し出しを渋るようになったため、借金に依存せざるを得なかった幕臣はかえって日々の生活資金すら調達できなくなり、江戸の経済は大きな混乱に見舞われた。のちの天保の改革でも、水野忠邦によって同様の無利子年賦返済令(1843年)が出されている。
江戸文化のパトロンとしての役割
札差は単なる高利貸しとして忌み嫌われただけでなく、江戸の文化・風俗において極めて重要な役割を果たした側面も見逃せない。莫大な財力を背景に、吉原遊郭や歌舞伎などで豪遊する札差の中からは、「通(つう)」であることを美学とする独特の町人文化が生まれた。特に「十八大通」と呼ばれた大口屋暁雨(おおぐちやぎょうう)などに代表されるように、彼らは洒脱な遊びや派手な身なりを好むとともに、狂歌、浮世絵、戯作などの文芸・芸術活動に多大な資金をつぎ込んだ。札差は化政文化をはじめとする江戸時代中後期の豊かな町人文化を育んだ有力なパトロンであり、彼らの存在なしには江戸の成熟した都市文化は語れないのである。