殉死の禁止

家綱の時代に、主君の死に際して家臣が後を追って切腹する悪習をどうしたか。
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★★★

【参考リンク】
殉死(Wikipedia)

殉死の禁止

1663年

【概説】
江戸幕府第4代将軍・徳川家綱の治世である1663年(寛文3年)に、主君の死に際して家臣が切腹して後を追う殉死の風習を禁じた法令。戦国時代から続く武力偏重の武断政治から、法と儒教道徳に基づく文治政治への転換を象徴する画期的な政策である。

殉死の風習とその弊害

戦国時代から江戸時代初期にかけて、主君の恩義に報いるため、あるいは自身の武士としての名誉を示すために、主君の死に際して家臣が切腹して後を追う「殉死(追腹)」が広く行われていた。この風習は主従関係の「忠義の証」として美化される一方で、幕府や藩の統治機構にとって大きな弊害を生み出していた。とりわけ、1651年(慶安4年)の第3代将軍・徳川家光の死に際しては、老中の堀田正盛や阿部重次をはじめとする幕閣の重鎮や有能な家臣が多数殉死した。これにより、政治の中枢を担うべき人材が一度に失われ、幼少の家綱を補佐する体制に深刻な打撃を与えたのである。

文治政治への転換と禁止令の公布

家綱の治世初期には、大量の牢人(浪人)を生み出した結果として由井正雪の乱(慶安の変)などが発生し、武力と威圧による統治(武断政治)の限界が露呈していた。幕政を主導した家綱の叔父・保科正之や老中・松平信綱らは、儒学(朱子学)の理念に基づき、社会秩序と法を重んじる文治政治への転換を推し進めた。儒学においては、親からもらった身体を無闇に傷つけることや、主君なき後に残された家を支えないことは「不孝」「不忠」とされ、殉死は非合理的な悪習として否定された。こうした思想的背景のもと、1663年(寛文3年)に諸大名へ武家諸法度(寛文令)が発布された際、幕府は口頭による達しとして殉死の厳禁を申し渡したのである。

徹底された処罰と悪習の根絶

幕府の禁止令が出されたものの、長年の風習はすぐに絶えることはなかった。1668年(寛文8年)、下野国宇都宮藩主・奥平忠昌の死に際して家臣が殉死を強行した事件(追腹一件)に対し、幕府は断固たる処置を下した。亡き忠昌の跡を継いだ奥平昌能は、殉死を未然に防げなかった責任を問われて2万石の減封・転封となり、殉死者の遺族も死罪や流罪などの厳罰に処されたのである。この見せしめとも言える厳しい処断により、各大名家は家臣の殉死を必死に押しとどめるようになり、以後、殉死の風習は急速に姿を消していった。

歴史的意義と「忠」の概念の変容

殉死の禁止は、単に人命の無駄な喪失を防いだだけでなく、武士における「忠」の概念を根底から変容させたという重要な意義を持っている。それまでの「忠」が「主君個人と家臣の間の、命を賭した情緒的な結びつき」であったのに対し、これ以降の「忠」は、「主君の『家』、ひいては『幕府(公儀)』という組織体制に対して、生きながらえて持続的に奉仕すること」へと質的に転換したのである。のちの1683年(天和3年)、第5代将軍・徳川綱吉による武家諸法度(天和令)において殉死の禁止は正式に明文化され、主従関係の官僚化を促進して、江戸幕府の平和で安定した幕藩体制の完成を決定づけることとなった。

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最終更新:2026年6月17日 @ 23:49

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