玉川上水
【概説】
江戸時代前期、急速に拡大する江戸の飲料水不足を解消するために多摩川から引かれた上水道。1653年(承応2年)に幕府の命を受けた玉川兄弟によって開削され、翌年に通水した。100万都市へと成長する江戸の都市インフラを支えただけでなく、武蔵野台地の新田開発にも多大な貢献を果たした。
急速な都市拡張と飲料水問題の深刻化
江戸幕府の開府以来、江戸の町は急速な発展を遂げ、全国から武士や町人が集まり人口が激増していた。初期の江戸の飲料水は、主に神田上水や溜池上水(赤坂溜池)などによって賄われていた。しかし、17世紀半ばの4代将軍徳川家綱の時代になると、江戸の市街地はさらに拡大し、とりわけ江戸城の南西部や新興の町人地において慢性的な水不足が深刻化した。
加えて、当時の江戸の下町は海を埋め立てて造成された地域も多く、井戸を掘っても塩分が混じってしまうという地理的要因もあった。水質悪化や衛生面での懸念も高まるなか、幕府は都市機能の維持・拡充のために、新たな安定した大規模水源を確保する必要に迫られたのである。
玉川兄弟による開削と高度な土木技術
1653年(承応2年)、幕府は多摩川から江戸へ水を引く新上水の建設計画を実行に移した。総奉行を「知恵伊豆」と称された老中の松平信綱、水道奉行を関東郡代の伊奈忠治(のちに忠克)が務め、実際の工事は町人の庄右衛門・清右衛門兄弟が請け負った。彼らはこの多大な功績により、のちに幕府から「玉川」の姓を許され、玉川兄弟と呼ばれることになる。
取水口は多摩川の羽村(現在の東京都羽村市)に設けられ、そこから江戸の入り口である四谷大木戸(現在の新宿区四谷)まで、約43キロメートルに及ぶ水路が開削された。特筆すべきは、羽村から四谷大木戸までの高低差がわずか約92メートルしかなかった点である。水流を維持するためには非常に緩やかで正確な傾斜を保ち続ける必要があり、当時の「水盛(みつもり)」などの測量技術の高さと、武蔵野台地の尾根筋を巧みに利用したルート選定の妙がうかがえる。関東ローム層の浸透性の高い土壌(水喰い土)による水漏れなどの難工事を乗り越え、着工からわずか数ヶ月という驚異的な短期間で本線の通水に成功した。
100万都市・江戸を支えた給水システム
羽村から四谷大木戸までは地表を流れる開渠(かいきょ)であったが、四谷大木戸には水番所(水番屋)が置かれ、水質や水量の厳重な管理が行われた。ここから江戸市中へは、地中に埋設された石樋や木樋(もくひ)を用いた暗渠(あんきょ)によって給水された。玉川上水からの水は、江戸城内をはじめ、四谷、麹町、赤坂、芝、京橋といった江戸の南西部の広大な武家地および町人地へと供給された。
市中の各所には「枡(ます)」と呼ばれる水量調節や不純物沈殿のための設備が設けられ、そこから細い竹樋などで各戸の共同井戸(上水井戸)へと分配される仕組みであった。この精緻な上水道ネットワークは、完成直後の明暦の大火(1657年)からの大規模な都市復興と市街地再編において不可欠なインフラとなり、18世紀初頭に世界有数の100万都市へと成長する江戸の繁栄を根本から支えた。
分水網の形成と武蔵野台地の新田開発
玉川上水が果たした歴史的役割は、単なる江戸の都市水道にとどまらない。豊かな水量が確保されたことで、本線から周辺地域へ多数の分水(用水)が引かれるようになった。代表的なものとして、総奉行の松平信綱が自らの領地である川越藩領へと引かせた野火止用水(のびどめようすい)や、後に開削された千川上水などが挙げられる。
古来、水に乏しく人が住むには不適とされていた広大な武蔵野台地は、これらの分水網が毛細血管のように張り巡らされたことで、大規模な新田開発が可能となった。これにより、武蔵野の地は不毛の原野から江戸の近郊農業地帯へと変貌を遂げ、大根やサツマイモなどの畑作を中心に、大消費地・江戸の食料需要を賄う重要な後背地となったのである。玉川上水は、都市のライフラインとしての機能と、広域的な農業開発の起爆剤としての機能を併せ持った、近世日本を代表する画期的な土木事業であった。