新井白石
【概説】
江戸時代中期の朱子学者、政治家。木下順庵の門人で学問を修め、第6代将軍徳川家宣と第7代家継の侍講として幕政を主導した人物。側用人の間部詮房とともに「正徳の治」と呼ばれる理想主義的な文治政治を展開し、将軍権威の確立や財政再建、さらには学術的著作を通して多大な功績を残した。
朱子学への傾倒と幕政への登用
新井白石は、上総国久留里藩主であった土屋氏の家臣の子として生まれた。若くして儒学に強い関心を持ち、大老・堀田正俊に仕えたが、正俊が暗殺されたことで浪人となる不遇の時代を過ごした。その後、朱子学者である木下順庵の門に入ると頭角を現し、順庵の推挙によって甲府藩主・徳川綱豊(のちの第6代将軍・徳川家宣)に侍講(学問を教授する役職)として仕えることとなった。
宝永6年(1709)、家宣が将軍に就任すると、白石は側用人の間部詮房とともに幕政の中枢へと引き上げられた。儒臣が幕府の最高権力者のブレーンとして政治を主導することは異例であり、白石は朱子学の理念に基づく「正しき政治」を現実の幕政に適用しようと試みた。これがのちに正徳の治と呼ばれる政治改革である。
文治政治の推進と将軍権威の確立
白石が目指したものは、武力ではなく礼儀や法度によって秩序を維持する文治政治の完成であった。第5代将軍綱吉の死後、ただちに悪評の高かった「生類憐れみの令」を廃止して民心の一新を図る一方で、将軍の絶対的な権威を高めるための儀礼整備を行った。その代表的なものが、朝鮮通信使に対する待遇の改定である。
白石は、通信使に対する過剰な接待を簡素化して幕府の財政負担を軽減すると同時に、将軍の外交上の呼称を従来の「日本国大君」から「日本国王」へと変更させた。これは、将軍が日本の最高主権者であることを対外的に明示し、朝鮮国王と対等な立場を構築しようとする朱子学的な名分論に基づくものであった。また、朝廷との関係融和と権威づけを図るため、皇室に新たな宮家である閑院宮家を創設させたことも、伝統的権威と幕府権力の調和を目指した白石の重要な施策である。
財政再建と貿易統制(海舶互市新例)
経済面においては、綱吉時代から悪化していた幕府財政の立て直しと、貨幣経済の混乱収拾が急務であった。白石は、財政責任者であった勘定奉行の荻原重秀を激しく弾劾して罷免に追い込んだ。荻原が発行した元禄金銀や宝永金銀といった質の悪い貨幣がインフレーションを引き起こしていたため、白石は初期の慶長金銀と同等の品位を持つ正徳金銀を鋳造させ、物価の安定と貨幣に対する信用の回復を図った。
さらに白石は、長崎貿易を通じた金銀の海外流出に強い危機感を抱いていた。当時、日本から支払われる金銀銅が大量に清やオランダへ流出しており、白石はこのままでは国内の貨幣資源が枯渇すると予測した。そこで正徳5年(1715)に海舶互市新例(長崎新令)を発布し、長崎に来航する清船やオランダ船の数と貿易額に厳格な制限を設けた。この政策は単なる制限にとどまらず、結果として国内での木綿や砂糖などの商品作物の生産(国産化)を促す契機ともなった。
失脚と歴史家・学者としての多大な功績
正徳6年(1716)、幼将軍の第7代家継が早世し、紀伊藩から徳川吉宗が第8代将軍として迎えられると、白石と間部詮房は幕政から退けられ失脚した。実学と質実剛健を重んじる吉宗の「享保の改革」において、白石が定めた儀礼的・理想主義的な法令の多くは実情に合わないとして破棄された。
しかし、政界を退いた後の白石は著述活動に専念し、学者として不朽の業績を残した。日本の歴史を武家政権の推移という視点から論理的に叙述した歴史書『読史余論』や、自身の生涯と政治的信条を綴った自伝『折たく柴の記』は、日本文学・史学史において極めて評価が高い。
また、屋久島に潜入して捕らえられたイタリア人宣教師シドッチを自ら尋問し、その知識をもとに西洋の地理や歴史、宗教をまとめた『西洋紀聞』や『采覧異言』を著した。キリスト教を厳しく禁じていた鎖国体制下にあって、白石は宗教と科学的知識を切り離して評価する合理的な姿勢を見せ、これがのちの蘭学発展の精神的基盤の一部となった。白石は、江戸時代における知の巨人として、政治と学問の両面で時代を象徴する存在である。