坪内逍遥 (つぼうちしょうよう)
【概説】
明治時代から昭和初期にかけて活躍した小説家、評論家、劇作家、英文学者。『小説神髄』を著して写実主義を提唱し、日本の近代文学の理論的基礎を築いた。江戸時代の戯作文学からの脱却を促し、日本の近代文学および近代演劇の幕開けを主導した重要人物である。
江戸時代の戯作文学からの脱却
明治時代初期の日本文学界は、江戸時代後期から続く滝沢馬琴などの勧善懲悪を主眼とした戯作(げさく)文学や、自由民権運動と結びついた政治小説、あるいは西洋文学の翻訳小説が主流を占めていた。東京大学でイギリス文学などを学んだ坪内逍遥は、西欧の近代文学や芸術理論を吸収する中で、旧来の日本文学のあり方に強い疑問を抱くようになった。彼は、小説の目的が道徳的な教訓を垂れること(勧善懲悪)にあるとする当時の文学観を強く批判し、人間の心理やありのままの社会を描写することこそが文学の本来の目的であると考えたのである。
『小説神髄』による写実主義の提唱
1885年(明治18年)、逍遥は画期的な文学評論『小説神髄』を刊行した。この中で彼は「小説の主脳は人情なり、世態風俗これに次ぐ」と主張し、人間のありのままの感情(人情)と、社会のありさま(世態風俗)を客観的に描写する写実主義を提唱した。これは日本の文学史上において初めて体系的に述べられた近代的な文学理論であり、日本の近代文学は事実上、この『小説神髄』の誕生をもって理論的基礎を確立したと評価されている。
理論の実践『当世書生気質』とその限界
逍遥は自身の理論を実践するため、『小説神髄』の刊行と並行して小説『当世書生気質(とうせいしょせいきかたぎ)』を発表した。これは当時の書生(学生)たちの生態を写実的に描こうとしたものであったが、文体や描写の端々に江戸時代の戯作の匂いが色濃く残っており、彼自身が提唱した近代的な写実主義を完全に体現するには至らなかった。しかし、この逍遥の不完全な実践は、後進の若き文学者たちに大きな刺激を与えることとなった。逍遥の指導を受けた二葉亭四迷は、逍遥の限界を乗り越えるべく言文一致体を用いた近代小説『浮雲』を執筆し、日本の近代小説を本格的に成立させることとなる。また、尾崎紅葉や山田美妙らによる硯友社(けんゆうしゃ)の活動も、逍遥の影響下から生まれたものであった。
近代演劇への貢献とシェイクスピア翻訳
逍遥の業績は小説や文学理論にとどまらない。東京専門学校(現在の早稲田大学)で教鞭をとる傍ら、雑誌『早稲田文学』を創刊し、明治文壇における有力な潮流を生み出す拠点を作った。明治時代後期以降は演劇の近代化にも注力し、島村抱月らとともに文芸協会を設立して新劇運動を推進した。さらに、半生をかけて取り組んだウィリアム・シェイクスピア全集の個人全訳は、日本の英文学および演劇史に燦然と輝く金字塔として現在も高く評価されている。旧弊を打破し、小説から演劇に至るまで近代日本の文化全般に与えた影響は計り知れない。