東山天皇 (ひがしやまてんのう)
【概説】
江戸時代中期の第113代天皇。前代の霊元天皇期に冷え込んだ江戸幕府との関係を改善し、朝幕融和を進めた君主。6代将軍徳川家宣や新井白石の協力を得て、皇統の断絶を防ぐための新たな宮家である「閑院宮家」の創設に道を開いた。
朝幕関係の緊張緩和と「正徳の治」への架け橋
東山天皇は、幕府に対して強硬な姿勢を取り続けた父・霊元天皇の譲位を受けて即位した。当時は5代将軍徳川綱吉の治世下であり、朝廷と幕府の間には一定の緊張感が漂っていた。しかし、東山天皇は父の排外的な態度とは一線を画し、幕府との融和路線を模索した。天皇の温和な品格もあり、綱吉の時代を通じて朝幕間の致命的な衝突は回避された。
この融和的な基盤は、綱吉の死後に政権を握った6代将軍徳川家宣およびその側近の新井白石による政治改革(正徳の治)において、さらに強固なものとなった。家宣や白石は、儒教的な徳治主義に基づき、朝廷の権威を尊重する方針を打ち出した。東山天皇は1709年に皇太子(中御門天皇)に譲位して院政を開始した直後に崩御してしまうが、彼が築いた朝幕の協調関係は、その後の正徳の治における朝廷融和策の土台となった。
皇統維持の悲願と「閑院宮家」の創設
東山天皇の治世における最大の歴史的業績は、閑院宮(かんいんのみや)家の創設を準備したことである。当時、天皇家を支える世襲親王家は伏見宮、有栖川宮、桂宮の三宮家(これを「三親王家」と呼んだ)が存在していたが、いずれも皇位継承の予備としての機能が脆弱であり、皇統断絶の危機が懸念されていた。
これに対し、幕府のブレーンであった新井白石は、皇統の安定こそが朝廷および幕藩体制の安定につながると確信し、新たな宮家の創設を将軍・徳川家宣に奏請した。東山天皇および朝廷側もこの提案を歓迎し、合意が形成された。天皇の崩御直後である1710年、東山天皇の直系である幼少の皇子・直仁(なおひと)親王を初代とする「閑院宮家」が正式に創設された。この宮家は、のちに後桃園天皇が後継ぎを欠いて崩御した際、閑院宮家から光格天皇を迎えることで皇統の断絶を救うという決定的な役割を果たし、現在の天皇家へと連なる血統の基盤となった。