芳沢あやめ (よしざわあやめ)
【概説】
江戸時代中期(元禄期)に活躍した上方(京都)の歌舞伎役者。野郎歌舞伎の時代において、舞台上だけでなく日常生活から女性としての身のこなしや心理を追求し、歌舞伎における女形(おやま)の演技・演出論を確立した名優である。
野郎歌舞伎の発展と女形の誕生
江戸幕府は風紀の乱れを取り締まるため、寛永6(1629)年に遊女歌舞伎を、承応元(1652)年には若衆(美少年)歌舞伎を禁止した。これを受けて登場したのが、前髪を剃り落とした成人男性が演じる野郎歌舞伎である。容姿の美しさによる誘惑を禁じられた歌舞伎は、歌舞や物真似を中心とする芸能から、役柄に応じた高い演技力が要求される演劇へと進化せざるを得なくなった。この過程で、男性が女性の役を写実的に演じる女形(おんながた/おやま)という専門の役柄が誕生し、その芸術性を極限まで高めたのが初代芳沢あやめであった。
『あやめぐさ』に見る女形の美学と実生活
初代芳沢あやめの芸論は、後年に福岡鵞羽によって編纂された『あやめぐさ』(『役者論語』の一部)に詳しく書き残されている。あやめは「普段の生活で女らしくしていなければ、舞台の上でとっさに良い女形を演じることはできない」と説き、日常から女性としての所作や言葉遣い、さらには楽屋や家庭内でも女性としての心理を保ち続けることを実践した。例えば、実生活において妻や母としての心構えを意識し、楽屋でも男性用の食事を避け、女性役としての立ち居振る舞いを崩さなかったという。こうした徹底した役作りが、舞台上における写実的で観客を魅了する女形芸の創出へとつながった。
上方歌舞伎における功績と歴史的意義
あやめは京都を拠点に活動し、上方歌舞伎の和事(わごと)の創始者である初代坂田藤十郎と共演を重ねた。藤十郎の洗練された写実的な演技スタイルと、あやめの徹底的に磨き抜かれた女性美の表現は完璧な調和を見せ、元禄期の京都歌舞伎の黄金時代を築き上げた。あやめが確立した女形の芸道と精神は、単なる女性の模倣を超えて「本物の女性以上に女性らしい」美を創り出す歌舞伎独特の美意識を形成し、現代に至る日本の伝統芸能の基礎となった。彼の名は名跡として受け継がれ、江戸時代を通じて優れた女形役者へと継承されていくこととなる。