住吉如慶 (すみよしのじょけい)
【概説】
江戸時代初期に活躍した大和絵(やまと絵)の絵師。伝統的な土佐派から分かれ、江戸幕府の御用絵師として格式を誇る「住吉派」を興した祖である。
土佐派からの独立と住吉派の興起
住吉如慶(本名は土佐広澄)は、桃山時代から江戸時代初期にかけて、大和絵の伝統を継承する絵師として活動した。当初は宮廷絵師の門流である土佐派に属し、土佐光吉や土佐光則に師事してその細緻な技法を修得した。当時の土佐派は、戦国時代の混乱期に宮廷とのつながりが一時的に薄れ、堺へ拠点を移すなど衰退期にあったが、如慶は同門の土佐光起らとともに流派の復興に尽力した。
やがて如慶は、土佐派の主流とは異なる独自の活動を展開するようになる。承応3年(1654年)、後水尾上皇の勅命により、中世に途絶えていたとされる絵師・住吉慶恩の名跡を継ぐ形で「住吉」の家名を復興。これが住吉派の始まりとなった。如慶への改名と出家はこの転機に伴うものであり、朝廷の庇護のもとで大和絵の新たな流派としての地位を確立した。
宮廷・幕府との結びつきと後世への影響
住吉派の最大の特徴は、朝廷の絵画制作を担う古典的な伝統を持ちながらも、急速に台頭する江戸幕府との結びつきを強めていった点にある。如慶は京都を拠点としながらも幕府の御用を積極的に務め、徳川家康の生涯を讃える「東照宮縁起絵巻」の制作に携わるなど、幕府の公式な画事において重要な役割を果たした。また、古典絵巻の名作である「伴大納言絵詞」の模写を行うなど、古典復興にも大きく貢献した。
如慶が築いた基盤は、その子である住吉具慶(ぐけい)へと引き継がれる。具慶は幕命により京都から江戸へと移住し、幕府の公式絵師である「奥絵師」に任じられた。これにより、江戸では武家好みの力強い画風を持つ狩野派が主流を占める中、住吉派は気品ある大和絵の伝統を江戸の地に定着させることに成功した。如慶の蒔いた種は、江戸時代を通じて幕府公式の絵画様式として定着し、近世日本の美術様式の多様化に大きく寄与したのである。