名古屋城
【概説】
徳川家康が豊臣氏への備えとして、西国大名を動員した天下普請によって築城させた平城。のちに徳川御三家の筆頭である尾張徳川家の居城となり、天守に輝く「金の鯱(金鯱)」は幕府の圧倒的な権威の象徴として知られる。
天下普請と大坂城包囲網の形成
関ヶ原の戦い(1600年)で勝利を収め、江戸に幕府を開いた徳川家康であったが、依然として大坂城には豊臣秀頼が存在し、豊臣恩顧の大名たちの動向も予断を許さない状況にあった。このような緊張関係の中で、慶長15年(1610年)、家康は東海道の要衝であり、江戸への入り口にあたる尾張国那古野の地に巨城を築くことを決定した。これが名古屋城である。
名古屋城の建設に際しては、加藤清正や福島正則、黒田長政といった西国・北国の諸大名20家に対して、土木工事や石垣普請を分担させる天下普請(てんかぶしん)の形式が採られた。この天下普請の最大の狙いは、大名たちに莫大な財政的負担を強いることで、彼らの経済的・軍事的な余力を削ぎ、徳川家に対する叛意を未然に防ぐことにあった。なかでも、加藤清正が優れた築城技術をもって天守台の石垣(清正石垣)を築き上げたエピソードは著名である。
徳川御三家・尾張藩の成立と軍事要塞としての機能
名古屋城が完成すると、家康の九男である徳川義直が駿府から入り、初代尾張藩主となった。これにより、将軍家に次ぐ格式を持ち、将軍の後継者供給源でもある徳川御三家の筆頭である尾張徳川家が成立することとなった。尾張藩は名古屋城を拠点に20万石を超える大名領地を治め、万が一、大坂の豊臣氏や西国の諸大名が東上してきた場合には、江戸防衛の第一防波堤として機能することが期待されていた。
そのため、名古屋城は極めて高い実戦機能を備えていた。広大な水堀、頑強な石垣に加え、最新の城郭技術を駆使した多門櫓(たもんやぐら)や、各所に配置された狭間(さま)など、攻守両面において隙のない設計がなされていた。この堅牢な軍事要塞の存在自体が、西国大名に対する強力な軍事的抑止力として働いたのである。
金鯱と本丸御殿が示す幕威の象徴
名古屋城の代名詞とも言えるのが、大天守の屋根に掲げられた一対の金の鯱(金鯱)である。この金鯱には、慶長小判にして約1940両分もの純金が使用されたと伝えられており、単なる防火の守り神(呪術的意味合い)を超えて、徳川幕府の圧倒的な財力と支配権を天下に誇示するための記念碑的建築であった。
また、本丸御殿は格式高い書院造の傑作であり、将軍の宿舎(御成専用)として増築された「上洛殿」をはじめ、室内は狩野探幽や狩野山楽ら狩野派の絵師たちによる絢爛豪華な障壁画で飾られていた。昭和20(1945)年の名古屋大空襲によって天守や本丸御殿の多くが焼失してしまったことは日本文化史上最大の痛手の一つであったが、本丸御殿については近年の入念な時代考証に基づき、見事な復元工事が完了し一般公開されている。