留守居 (るすい)
【概説】
江戸幕府における職制の一つで、将軍不在時の江戸城の守衛や管理、各大名家の人質の監視などを掌った役職。老中の支配下に置かれ、旗本の中から実務経験豊かな重臣が選ばれる格式の高いポストであった。
将軍不在の「城の留守番」から始まった成立背景
江戸幕府の初期、特に初代・徳川家康から3代・徳川家光にわたる時期は、将軍の上洛や日光社参、さらには家康による駿府での「大御所政治」の並立などにより、将軍が江戸城を長期にわたって空けることが頻繁にあった。この将軍不在時に、江戸城内の軍事・行政の最高責任者として機能したのが留守居である。初期の留守居は、城門の開閉や宿直の管理、奥向きの取り締まり、緊急時の警備指揮など、幕府の心臓部を守る極めて重い権限を握っていた。老中支配に属し、芙蓉の間詰の格式とされ、数千石クラスの旗本から選出されるエリートポストであった。
参勤交代制度と「大名の人質」の取締り
3代将軍・徳川家光の時代に参勤交代が制度化されると、各大名の正室(妻)や嫡子(子)は人質として江戸への常住が義務付けられた。これに伴い、留守居には大名の人質たちが幕府に無断で江戸を脱出(「女使の出女」など)しないよう、厳重に監視・取締りを行うという重要な役割が課せられた。万が一、不審な動きや脱出の企てがあった場合には、関所の閉鎖を命じるなど、大名統制の根幹を維持するための警察権力を有していた。
泰平の世における役割の変化と大名「留守居役」との違い
江戸中期以降、将軍の上洛や日光社参がほとんど行われなくなると、江戸城の守衛という留守居の本来の実務は形骸化していった。そのため、次第に長年の功績に対する「名誉職」や、一種の「隠居職」としての性格を強めることとなった。なお、歴史学習において混同しやすいのが、各大名家が江戸藩邸(上屋敷)に独自に配置した「留守居(留守居役)」である。大名家の留守居役は、幕府や他藩との情報交換や折衝、接待などを担う「外交官」としての役割を果たしており、幕府の職制である留守居とは全く異なる存在であった。