上野(関八州) (こうずけ)
【概説】
東海道の鈴鹿、北陸道の愛発、東山道の不破の「三関」より東に位置する関八州(坂東八カ国)の一つ。現在の群馬県に相当する令制国であり、江戸時代には利根川の水運や中山道などの交通網を通じて江戸と密接に結びつき、養蚕や生糸・絹織物の一大生産地として栄えた地域。
関八州における上野国の地理的・政治的位置づけ
江戸幕府は、江戸の防衛と支配の安定を目的として、関東地方(関八州)を直轄領(天領)や旗本領、さらには信頼のおける譜代大名領に細分化して統治した。上野国もその例外ではなく、前橋藩、高崎藩、館林藩、沼田藩、安中藩などの諸藩領、旗本領、天領などが複雑に入り組む「モザイク状」の領有形態をとっていた。
地理的には、北和の山岳地帯から関東平野の北西端へと広がる位置にあり、信濃国や越後国と接する境界にあたる。そのため、江戸幕府にとって軍事・交通上の要衝であり、五街道の一つである中山道が通り、碓氷峠には関所(碓氷関)が設けられて「入鉄砲に出女」を厳しく監視した。また、越後国へ至る三国街道や、日光例幣使街道なども整備され、人や物資の往来が極めて盛んな地域であった。
火山灰土がもたらした「絹の国」への発展
上野国は浅間山や赤城山、榛名山などの火山に囲まれており、平野部の多くは「関東ローム層」と呼ばれる酸性の火山灰土壌に覆われていた。この地質は水持ちが悪く、米作(水田開発)には不向きであったため、古くから麦や大豆などの畑作や、桑の栽培が行われていた。桑の葉を餌とする養蚕、そしてそこから得られる生糸の生産、さらにそれを加工する絹織物業は、上野国の生存と発展に不可欠な産業となった。
特に江戸時代中期以降、商品経済が農村にまで深く浸透すると、上野国の絹産業は飛躍的な発展を遂げた。「西の西陣、東の桐生」と並び称された桐生をはじめ、伊勢崎や足利(隣接する下野国)などでは、高度な技術を用いた絹織物が生産され、京都の西陣に匹敵する高級織物産地となった。これらの製品は、江戸の問屋を通じて全国の消費者に届けられ、地域の富を潤した。
幕末の開港と同地域の歴史的意義
1858年の日米修好通商条約締結にともない、翌1859年に神奈川(横浜)が開港すると、日本の主要な輸出港となった横浜に向けて、上野国で生産された生糸が大量に流入した。当時、ヨーロッパでは微粒子病の流行により養蚕業が壊滅的な打撃を受けており、日本の良質な生糸は外貨獲得の最大の切り札となったのである。上野国の生糸は「蚕種(蚕の卵)」とともに世界市場へ送り出され、幕末から明治にかけての日本経済を支える屋台骨となった。
この江戸時代を通じて培われた養蚕・製糸技術の伝統と蓄積があったからこそ、明治政府は上野国(群馬県)の富岡に、初の官営模範工場である富岡製糸場を建設することを選択した。江戸時代の上野における産業発展は、日本の近代産業化(産業革命)を準備するうえで極めて重要な歴史的前提であったと言える。