隠元(隆琦) (いんげん りゅうき)
【概説】
江戸時代初期に明から来日し、禅宗の一派である黄檗宗を開いた臨済宗の僧。4代将軍徳川家綱や幕府要人の厚い帰依を受け、山城国宇治に万福寺を創建した。仏教界の活性化のみならず、インゲンマメをはじめとする明代の文化や生活習慣を日本に伝えたことでも知られる。
明清交代期の動乱と長崎への来日
隠元が活躍した17世紀半ばの中国大陸は、明朝が滅亡し清朝が台頭する激動の時代(明清交代期)であった。隠元は福建省にある黄檗山万福寺の住職として、臨済宗の最高峰に位置する名僧であったが、戦乱の影響による社会の混乱に直面していた。
一方、鎖国体制下にあった江戸時代の日本(長崎)では、交易のために滞留していた中国人(唐人)の要望により、興福寺などの「唐寺(とうじ)」が次々と建立されていた。これらの寺院から本国の正統な高僧の招聘を強く望まれた隠元は、度重なる招請に応じ、1654(承応3)年に多くの弟子を伴って長崎へ来日した。当初は3年程度の短期滞在の予定であったが、彼の高徳な人格と先進的な禅風は瞬く間に日本の仏教界に知れ渡り、滞在の延長と定住を望む声が高まることとなった。
幕府の帰依と「黄檗宗」の開創
隠元の存在は、朝廷や幕府の知るところとなり、特に4代将軍徳川家綱や大老酒井忠勝らは深く彼に帰依した。幕府は、当時の宗門改めなどの宗教政策とも連動し、新興の禅風を保護することで国内の仏教界を統制・活性化させようとする意図もあったとされる。
1661(寛文元)年、隠元は幕府から山城国宇治(現在の京都府宇治市)に領地を寄進され、故郷の寺と同名である黄檗山万福寺を創建した。万福寺の伽藍(がらん)や儀礼はすべて明朝風の様式で統一されており、これが日本における黄檗宗(おうばくしゅう)の始まりとなった。黄檗宗の伝播は、当時、形骸化しつつあった日本の既存の禅宗(臨済宗・曹洞宗)に強い刺激を与え、戒律の復興や組織の再編など、禅宗全体の「寛文の法難」と呼ばれる改革運動の契機ともなった。
「黄檗文化」としての生活・産業への貢献
隠元と黄檗宗の僧侶たちがもたらした影響は、宗教の枠組みを大きく超え、日本の生活文化に計り知れない変革をもたらした。これらは総称して黄檗文化(おうばくぶんか)と呼ばれる。
食文化の分野では、彼の名にちなんで名付けられたインゲンマメ(隠元豆)のほか、スイカ、レンコン(一節が長い中国種)、タケノコ(孟宗竹)などの新たな食材が日本に導入された。また、大皿の精進料理を複数人で囲んで食べる中国風の宮廷料理である普茶料理(ふちゃりょうり)や、急須で淹れたお茶を飲む煎茶の習慣も彼らによってもたらされ、後の日本の煎茶道の源流となった。さらに、隠元らの書は「黄檗様(おうばくよう)」と呼ばれる力強い書風として流行し、明朝風の木版印刷技術は、日本の出版文化や現代のフォントである「明朝体」の発展に直接的な影響を与えることとなった。