慶長遣欧使節

1613年、伊達政宗がスペインやローマ教皇のもとへ派遣し、支倉常長らが渡航した使節団を何と呼ぶか。
カテゴリ:
重要度
★★★

慶長遣欧使節

1613年 – 1620年

【概説】
1613年(慶長18年)に、仙台藩主の伊達政宗がスペイン国王およびローマ教皇のもとへ派遣した外交使節団。家臣の支倉常長を正使、フランシスコ会宣教師のルイス・ソテロを副使とし、日本人として初めて太平洋と大西洋の横断に成功した出来事である。

使節派遣の背景と伊達政宗の野望

江戸時代初期、大御所であった徳川家康は海外交易に積極的であり、特にメキシコ(ヌエバ・エスパーニャ)を領有するスペイン(イスパニア)との直接通商を強く望んでいた。1609年(慶長14年)に前フィリピン臨時総督ドン・ロドリゴが上総国に漂着した事件を契機に、家康はスペインとの外交交渉を開始するが、キリスト教の布教を巡る問題などから交渉は難航していた。

こうした中、独自の海外交易を企図したのが仙台藩主の伊達政宗である。政宗はフランシスコ会宣教師のルイス・ソテロと接近し、幕府の承認を得た上で、仙台領内でのキリスト教布教の容認を条件に、メキシコとの直接貿易を開く構想を抱いた。政宗は幕府の協力を得て、領内の月ノ浦(現在の宮城県石巻市)で日本初の本格的な西洋式帆船であるサン・ファン・バウティスタ号を建造させ、使節団を派遣することとなった。

太平洋・大西洋の横断とヨーロッパでの歓待

1613年(慶長18年)、政宗の家臣である支倉常長を正使、ソテロを副使とする総勢180名余りの使節団が月ノ浦を出帆した。使節団は太平洋を横断してメキシコのアカプルコに到着し、そこから陸路で大西洋岸へ移動。さらに大西洋を渡って、1614年末にスペイン南部のセビーリャに入城した。

翌1615年、使節団はマドリードにおいてスペイン国王フェリペ3世に謁見を果たし、政宗の親書を手渡して通商を求めた。常長はこの地で国王臨席のもと、キリスト教の洗礼を受けている。その後、使節団はさらにローマへと赴き、教皇パウルス5世(パウロ5世)に謁見した。教皇は遠路はるばる東洋から訪れた使節を大いに歓迎し、常長にはローマ市民権を与えるなど、ヨーロッパ社会で大きな話題を呼んだ。

禁教令による交渉の頓挫と不遇の帰国

しかし、使節団がヨーロッパで華々しい外交活動を展開している裏で、日本の情勢は大きく転換していた。幕府はキリスト教への警戒を強め、使節が出発した翌年の1614年(慶長19年)には全国に慶長の禁教令を発布し、激しいキリシタン弾圧を開始したのである。この日本国内での弾圧の情報は、マニラやメキシコを経由してすぐにヨーロッパへと伝わっていた。

日本がキリスト教を排斥したことを知ったスペイン国王は、政宗が提案した通商条約や宣教師の派遣要求を最終的に拒絶した。これにより、使節団の本来の目的であった通商交渉は完全に頓挫することとなった。目的を果たせなかった常長らは、帰路の途上でマニラに長期間滞在を余儀なくされた後、出発から7年を経た1620年(元和6年)にようやく帰国した。

歴史的意義と遺された資料

常長が帰国した時、すでに日本では禁教政策が徹底されており、かつての主君・伊達政宗も幕府の方針に従って領内のキリシタンを弾圧していた。そのため、帰国した常長は冷遇され、その2年後に失意のうちに病死した。使節団が持ち帰った品々も長く仙台藩の蔵に隠匿され、歴史の表舞台から姿を消すこととなった。

しかし、当時の日本人が自らの手で太平洋と大西洋を横断し、ヨーロッパ中枢と直接の外交交渉を行ったという事実は、日本外交史および世界史において極めて重大な意義を持つ。常長が持ち帰った「ローマ市公民権証書」や教皇の肖像画、西洋の武具などは慶長遣欧使節関係資料として現在国宝に指定されており、2013年にはユネスコ「世界の記憶」(記憶遺産)にも登録され、その歴史的価値が世界的に再評価されている。

支倉常長: 慶長遣欧使節の悲劇 (中公新書 1468)

伊達政宗の命を受け海を渡った支倉常長の苦難に満ちた足跡を辿り、時代の波に翻弄された使節団の悲劇を描いた歴史書。

慶長遣欧使節: 伊達政宗が夢見た国際外交 (531) (歴史文化ライブラリー 531)

幕府と藩の思惑が交錯する中で試行錯誤を繰り返した慶長遣欧使節の全貌を、当時の国際情勢の視点から紐解く一冊。

最終更新:2026年6月17日 @ 23:49

日本史一問一答(ランダム)

Q. 下段に経文を書き、上段にその内容を表す絵を連続して描いた、日本における絵巻物の源流とされる天平時代の作品は何か?
Q. 1603年に徳川家康が開いた、約260年間続くこととなる新たな武家政権を何というか?
Q. 近江国の北部を支配し、朝倉氏と結んで織田信長と激しく戦ったが滅ぼされた戦国大名は何か?