ルソン
【概説】
現在のフィリピン群島のうち、最大の面積を持つルソン島を指す歴史的地名。16世紀後半にスペインの東アジア支配の拠点であるマニラが建設され、江戸時代初期の朱印船貿易において日本の主要な渡航先となった交易地。商業的な結びつきのみならず、日本町の形成やキリシタンの亡命など、人的・文化的な交流の舞台としても重要な役割を果たした。
スペインのアジア拠点マニラと朱印船貿易の展開
1571年、スペインの初代フィリピン総督レガスピがルソン島南部にマニラ市を建設し、この地をスペインのアジア支配の拠点とした。これにより、メキシコのアカプルコとマニラを結ぶ太平洋を横断する「ガレオン貿易(マニラ・ガレオン)」が本格化し、中国の生糸や日本の銀が流入する国際的な交易ネットワークが形成されることとなった。
豊臣秀吉の時代から徳川家康による朱印船貿易の時代にかけて、日本商人は盛んにルソンへと渡航した。幕府から朱印状を得た公式な貿易船にとって、マニラは安南(ベトナム)や高砂(台湾)などと並ぶ最重要の渡航先であった。日本からは銀、銅、鉄、麦粉などが輸出され、ルソンからは中国産の生糸や絹織物、金、武具などのほか、ルソンを中継してヨーロッパの珍奇な文物(南蛮物)がもたらされた。
マニラの「日本町」とキリシタン流刑の地
ルソンとの交易が活発化するに伴い、マニラ近郊のディラオやサンミゲルなどの地域には、多数の日本人が居住する日本町(日本人町)が形成された。最盛期には数千人規模の日本人が暮らしており、その中にはマニラ総督に傭兵として雇われ、現地の反乱鎮圧に従事する武士崩れの者たちも含まれていた。
また、ルソンは日本のキリスト教史においても重要な意味を持つ。江戸幕府による禁教令の強化にともない、1614年には高山右近や内藤如安ら多くのキリシタンがマニラへと追放された。右近は現地で熱狂的な歓迎を受けたものの、まもなく病没している。このように、当時のルソンは経済的交流のみならず、宗教的・政治的な理由による人的移動の受け皿でもあった。
ルソン壺の流行と「鎖国」による関係途絶
安土桃山時代には、和泉国堺の商人である納屋助左衛門(ルソン助左衛門)がルソンに渡って巨万の富を築いた。彼が持ち帰った現地の日用品である泥色の陶器(銘:ルソン壺)は、日本では茶人・千利休らによって茶器(葉茶壺)として極めて高く評価され、織田信長や豊臣秀吉をはじめとする戦国大名の間で家宝として珍重された。
しかし、江戸幕府がキリスト教の流入を警戒し、対外関係の統制(いわゆる「鎖国」の形成)を強めると、マニラを拠点とするキリスト教宣教師の潜入が問題視されるようになった。その結果、幕府は1624年にスペイン船の来航を全面的に禁止し、外交および通商関係を絶った。これにより、日本とルソンとの組織的な交易や人的往来は終焉を迎えることとなった。