アユタヤ
【概説】
14世紀から18世紀にかけてタイ(シャム)に存在したアユタヤ王朝の首都。朱印船貿易の展開にともない、東南アジア有数の国際貿易都市として繁栄した交易拠点。多くの日本人が移住して「日本人町」が形成され、近世初期における日本と東南アジアの緊密な通商関係を象徴する地となった。
朱印船貿易の展開とアユタヤの台頭
1350年に建国されたアユタヤ王朝は、チャオプラヤ川の水運を活かした交易国家として成長した。16世紀末から17世紀初頭、日本において織豊政権や江戸幕府が対外交易を統制・推奨すると、アユタヤは主要な渡航先となった。特に徳川家康が推進した朱印船貿易において、アユタヤは台湾やルソン(マニラ)と並ぶ最重要拠点として位置づけられた。
アユタヤからは、日本の武具(甲冑や刀剣の鞘)の材料となる鹿皮や、刀の柄に用いられる鮫皮(エイの皮)、赤色染料の原料である蘇木などが大量に輸出された。これに対し、日本からは銀や銅、工芸品などがもたらされ、アユタヤは中国や欧州、イスラーム世界の商人が集う国際貿易都市として全盛期を迎えた。
日本人町の形成と山田長政の活躍
朱印船貿易の活性化にともない、アユタヤ郊外のチャオプラヤ川沿いに日本人町が形成された。ここには商人だけでなく、関ヶ原の戦いや大坂の陣などで浪人となった武士、さらにはキリスト教弾圧を逃れて日本を脱出したキリシタンなども流入した。最盛期には約1000人から1500人もの日本人が居住したとされている。
こうした日本人移民の一部は、優れた軍事力を持つ傭兵隊としてアユタヤ王室に仕えた。その中で最も台頭したのが山田長政である。駿河国出身の長政は、アユタヤ王室の王位継承争いなどで軍事的功績を挙げ、国王の信任を得て最高官位(オークヤー・セーナーピムック)に登りつめた。彼は日本人町の頭領として貿易を統括し、当時の徳川将軍家や老中とアユタヤ王室をつなぐ外交の仲介者としても重要な役割を果たした。
「鎖国」政策による日本人町の衰退
しかし、こうした日・シャム間の緊密な関係は、幕府の対外政策の転換によって大きな影響を受けることとなった。江戸幕府が寛永期に進めた「鎖国」政策、とりわけ1635年の日本人の海外渡航および帰国の禁止は、東南アジア各地の日本人町に致命的な打撃を与えた。新たな移住者の供給が完全に途絶えたためである。
同時期、アユタヤ王室内での権力闘争に巻き込まれた山田長政が毒殺され、日本人町も一時焼き討ちにあうなどの悲劇に見舞われた。その後、日本人町は再建され、一部の日本人は現地に留まって交易を続けたものの、世代交代とともに現地住民との混血・同化が進み、18世紀中頃には自然消滅に至った。アユタヤの日本人町は、日本が孤立の道へ向かう以前に展開していた、ダイナミックな「海のアジア」との関わりを物語る歴史的遺構である。