深良村 (ふからむら)
【概説】
江戸時代初期に開削された箱根用水(深良用水)によって、芦ノ湖の水を引くことに成功した駿河国(現在の静岡県)の農村。深刻な水不足に苦しむ不毛の地から、一大トンネル工事を経て豊かな穀倉地帯へと変貌を遂げた。国境を越えた新田開発と、当時の高度な土木技術を今に伝える歴史的な地である。
水不足の苦難と箱根用水の構想
駿河国駿東郡に位置した深良村(現在の静岡県裾野市深良)は、愛鷹山の東麓に広がる火山灰土の台地にあり、河川が乏しく極めて水不足になりやすい土地であった。旱魃(かんばつ)が起きるたびに深刻な飢饉に見舞われていたこの地を救うため、寛文年間(1660年代)に立ち上がったのが、深良村の名主・大庭源之丞(おおばげんのじょう)であった。源之丞は、箱根山(三国山)を挟んで東隣に位置する芦ノ湖の豊富な水を、トンネル(隧道)を掘って西側の深良村へと引き込むという壮大な計画を立案した。
技術的苦難と国境を越えた大工事
この計画を実地に移すには、厚い岩盤の箱根山を約1,280メートルにわたって貫通させる必要があった。さらに、水源である芦ノ湖は相模国(神奈川県、当時は小田原藩領など)に属し、深良村は駿河国(静岡県)に属していたため、国境を越える政治的な調整も不可欠であった。大庭源之丞は、江戸の商人である友野与右衛門(とものよえもん)らの資金援助や協力を得て、幕府や関係諸藩の許可を取り付けることに成功した。
1666年(寛文6年)に着工された工事は、山の両側から掘り進めて中央で合流させる「迎え掘り」という極めて高度な測量・土木技術が用いられ、わずか約3年半後の1670年(寛文10年)に通水を果たした。この箱根用水の開削により、深良村とその周辺には潤沢な灌漑用水が行き渡り、約150ヘクタールに及ぶ「深良新田」などの広大な新田が開発されることとなった。
近代にまで及んだ水利権をめぐる対立
深良用水の完成は深良村に豊かな実りをもたらしたが、同時に新たな歴史的課題をも生み出した。水源である芦ノ湖が相模国にあるのに対し、受益地は駿河国であったため、決壊時の復旧負担や水量の調整などをめぐり、両国の間でしばしば紛争が発生した。この水利権をめぐる対立は明治以降も尾を引くこととなり、大正から昭和にかけて「芦ノ湖水利権訴訟」として裁判で争われるなど、日本の水利権・慣行水利権の歴史を考える上で極めて重要な事例として知られている。