山内上杉氏 (やまのうちうえすぎし)
【概説】
室町幕府の東国統治機関である鎌倉府を補佐する「関東管領」を世襲した、上杉氏の代表的な家系。鎌倉の山内に居館を置いたことに由来し、同族の扇谷上杉氏とともに室町時代の関東地方で強大な勢力を誇った。戦国時代には新興の後北条氏の圧迫を受けて衰退し、当主の上杉憲政が越後の長尾景虎(上杉謙信)に関東管領職と家督を譲ったことで、その名跡は越後上杉氏へと継承された。
鎌倉府の要職・関東管領の世襲と権勢の確立
上杉氏は勧修寺流藤原氏の出自で、足利尊氏の母(上杉清子)の実家であったことから、室町幕府の成立に伴い重用された。なかでも、初代の関東管領をつとめた上杉憲顕の息子たちからいくつかの諸家(山内・扇谷・犬懸・宅間)が分立し、憲顕の養子であった憲栄を祖とする山内上杉氏は、鎌倉の山内(現在の神奈川県鎌倉市山ノ内)に居館を構えた。山内上杉氏は、関東を支配する鎌倉公方(足利氏)を補佐する最高政務官である関東管領を世襲し、上杉一族の中でも最大の勢力(本家・宗家)として君臨した。しかし、鎌倉公方との対立や一族内の争いが絶えず、特に関東を揺るがした享徳の乱(1454〜1483年)では、鎌倉公方・足利成氏と対立する幕府側の主力として戦い、関東の権力構造を大きく塗り替えることとなった。
扇谷上杉氏との抗争と後北条氏による圧迫
享徳の乱の終結後、山内上杉氏は同じ上杉一族で相模国を中心に勢力を伸ばした扇谷上杉氏と関東の主導権をめぐって対立を深め、長享の乱(1487〜1505年)と呼ばれる激しい内訌に突入した。この争いは上杉一族全体の弱体化を招く結果となる。さらに15世紀末になると、伊勢宗瑞(北条早雲)を祖とする新興勢力の後北条氏(小田原北条氏)が伊豆から相模へと進出を開始した。山内・扇谷の両上杉氏は、急速に台頭する後北条氏に対抗するため一時的に手を結んだものの、勢力挽回は叶わなかった。1546年の河越夜戦(河越城の戦い)において、山内上杉憲政と扇谷上杉朝定の連合軍は北条氏康の奇襲にあって壊滅的な大敗を喫し、朝定は討死して扇谷上杉氏は滅亡、憲政は上野国平井城へと敗走した。
憲政の越後逃避と上杉謙信への継承
河越夜戦の敗北後も北条氏康による圧迫は続き、上野国を追われた山内上杉家当主の上杉憲政は、越後国の実力者であった守護代・長尾景虎(のちの上杉謙信)を頼って逃れた。憲政は景虎の武力を背景に関東奪還を目指し、1561年に鎌倉の鶴岡八幡宮において、景虎に山内上杉氏の家督と関東管領職を譲渡した。これにより、景虎は「上杉政虎(のちに輝虎、謙信)」と改名し、名門・山内上杉氏の名跡を受け継ぐこととなった。憲政から謙信へと受け継がれた山内上杉氏の血統と権威は、その後の謙信による「義」を重んじる関東出兵の正当な大義名分として機能し、戦国時代の東国情勢に大きな影響を与え続けることとなった。