三論宗 (さんろんしゅう)
【概説】
奈良時代に栄えた仏教の学派である「南都六宗」の一つで、すべての存在に固定的な実体はないとする「空(くう)」の思想を研究する宗派。推古天皇の時代の625年、高句麗の僧である慧灌(えかん)によって日本にもたらされ、大安寺などを拠点に国家的な学問として深く研究された。
高句麗僧・慧灌の来日と日本への伝来
三論宗が日本に伝来したのは、飛鳥時代の推古天皇33年(625年)のことである。高句麗の僧であった慧灌が来日し、元興寺(飛鳥寺)において「三論」を講じたのがその端緒とされる。慧灌は中国の隋に渡り、三論宗の実質的な大成者である吉蔵(嘉祥大師)に師事した正統な系譜を引く学僧であった。
当時、東アジアの最先端の仏教教理を修めていた慧灌は、雨乞いの祈祷を成功させるなどして朝廷から厚い信頼を得た。日本における仏教は、初めは病気平癒や国家安泰といった現世利益的な「鎮護国家」の宗教として受け入れられたが、慧灌の来日を契機として、本格的な仏教教理の研究(学問仏教)への道が開かれることとなった。
「三論」の由来と「空」の教理
三論宗の名称は、大乗仏教の基礎を築いたインドの龍樹(ナーガールジュナ)が著した『中論』『十二門論』、およびその弟子である提婆(デーヴァ)が著した『百論』という、3つの論書(解説書)を思想的基盤とすることに由来する。
その教理の核心は、万物の実体的な存在を否定する「空(くう)」の思想である。すべての存在は、単独で自立して存在しているのではなく、相互の依存関係(因縁)によって仮に現れているにすぎない(これを縁起という)と主張する。この徹底した「空」を理解するために、生じず滅せず、断ぜず常ならず、一ならず異ならず、来たらず去らず、という8つの否定によって真実の理(中道)をあらわす「八不中道(はっぷちゅうどう)」の理論が唱えられた。
南都六宗における位置づけと歴史的展開
奈良時代に入ると、三論宗は政府から公認された6つの学派(南都六宗)の中で、最も古い歴史を持つ学派として重んじられた。なお、同じく南都六宗に数えられる「成実宗(じょうじつしゅう)」は、三論宗を学ぶ者が付随して学習する兼学の宗派(付宗)として扱われた。
奈良時代の三論宗は、唐に留学して最新の仏教を日本に持ち帰った道慈(どうじ)らの学僧によって、大乗仏教の最高峰として学問的研究が進められ、その研究拠点は大安寺に置かれた。三論宗は、のちに興隆する法相宗(すべての存在は唯、心の現れであるとする「唯識」を唱える宗派)と、どちらの教理が仏教の究極の真理であるかをめぐって、激しい学問的論争を繰り広げた。
平安時代に入ると、最澄が伝えた天台宗や空海が伝えた真言宗などの新しい密教的・実践的な仏教の台頭に押され、純粋な学問宗派であった三論宗は徐々に衰退していった。しかし、三論宗がもたらした「空」の哲学は、日本仏教の思想的基盤を形成する上で極めて重要な役割を果たしたのである。