堀越公方 (ほりごえくぼう)
【概説】
室町時代中期から戦国時代初期にかけて、伊豆国堀越(現・静岡県伊豆の国市)を拠点とした足利氏の公方家。鎌倉公方に対抗するため室町幕府が派遣した足利政知に始まるが、鎌倉入りを果たせず伊豆に割拠した。最後は北条早雲(伊勢宗瑞)によって滅ぼされ、この事件が東国における戦国時代の幕開け(下剋上)の象徴となった。
享徳の乱と堀越公方の誕生
堀越公方の成立は、関東地方を四半世紀以上にわたって揺るがした大乱である享徳の乱(1454年〜1482年)と深く結びついている。当時、関東を支配していた鎌倉公方の足利成氏は、対立する関東管領の山内上杉憲忠を暗殺した。これにより、室町幕府や上杉一族と全面衝突に至った成氏は、幕府軍の追討を避けて下総国の古河(茨城県古河市)へと拠点を移し、古河公方を自称して抵抗を続けた。
これに対し、室町幕府の8代将軍・足利義政は、古河公方を討伐して関東の直接支配を回復するため、1457年(長禄元年)、異母兄にあたる僧侶の香厳院清久を還俗させ、新たな鎌倉公方として東国へ派遣した。これが足利政知である。しかし、当時の関東の治安は極めて悪く、現地の上杉氏や国人領主たちも政知の権威を素直に受け入れなかった。鎌倉への道は阻まれ、政知はやむなく箱根の手前である伊豆国田方郡の堀越(ほりごえ)に御所を構え、独自の勢力構築を図ることとなった。これが「堀越公方」の始まりである。
関東における「二つの公方」の並立と限界
堀越公方の誕生により、関東地方には古河の足利成氏と、伊豆の足利政知という「二人の公方」が並立する異常事態が生じた。この分裂は、背後にある幕府(足利将軍家)の権威失墜と、関東の実質的な支配者である山内・扇谷の両上杉氏の思惑が絡み合い、極めて複雑な政治状況を作り出した。
政知は、将軍の親兄という高い血統的権威を有し、幕府の全面的なバックアップを受けていたが、軍事的には現地の守護や上杉氏の兵力に依存せざるを得なかった。また、政知の側近である渋川義鏡が現地勢力と対立して失脚するなど、政権の基盤は常に不安定であった。結局、1482年(文明14年)に幕府と古河公方の間で和睦(都鄙合体)が成立すると、古河公方の存在が正式に認められ、堀越公方の関東全域における正当性は事実上失われてしまう。これにより、堀越公方は「関東の主」から「伊豆一国の支配者」へと事実上埋没していくことになった。
家督をめぐる内訌と北条早雲による滅亡
1491年(延徳3年)、初代の足利政知が病没すると、堀越公方家は深刻な家督争いに見舞われた。政知の長男である茶々丸は、素行不良を理由に廃嫡され幽閉されていたが、父の死後に反乱を起こし、異母弟の潤童子とその母を殺害して、強引に2代目の堀越公方に就任した。
しかし、殺害された潤童子の実兄は、京都の室町幕府で11代将軍に就任したばかりの足利義澄(義高)であった。将軍の母弟を殺害した茶々丸の暴挙は、幕府を激怒させることとなる。この機を捉えたのが、駿河の今川氏を背景に台頭しつつあった伊勢宗瑞(北条早雲)であった。早雲は幕府(将軍義澄)の密旨(討伐令)を受け、1493年(明応2年)、突如として伊豆へと攻め入った。この「伊豆討ち入り」によって茶々丸は追放され、堀越公方は実質的に滅亡した。この事件は、守護大名や公方といった中央の権威に代わり、実力を持つ新興勢力が領国を支配する「下剋上」の代表例とされ、日本史において戦国時代の本格的な開幕を示す画期的な出来事として位置づけられている。