遠江

現在の静岡県西部にあたり、駿河から勢力を伸ばした今川氏が平定し、のちに徳川家康が支配した令制国は何か?
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重要度
★★

遠江

【概説】
東海道に位置する令制国の一つで、現在の静岡県大井川以西(西部地域)にあたる地域。古くから交通の要衝であり、戦国時代から安土桃山時代にかけては今川氏、徳川氏、武田氏らによる激しい領有権争いの舞台となった。のちに徳川家康の天下取りを支える重要な足がかりとなった国である。

「遠つ淡海」に由来する地勢と中世までの動向

遠江という国名は、都(畿内)に近い琵琶湖を「近つ淡海(ちかつおうみ=近江)」と呼んだのに対し、都から遠い浜名湖を「遠つ淡海(とおつおうみ)」と呼んだことに由来する。東は駿河国(大井川を境界とする)、西は三河国、北は信濃国と接しており、太平洋に面した温暖な平野部と、天竜川流域の山間部から構成されている。

古代より東海道の重要拠点であり、鎌倉時代には北条氏が守護を務めるなど、幕府にとっても極めて重要な地域であった。室町時代に入ると斯波氏が守護となったが、隣国・駿河の守護である今川氏が進出を図るようになり、守護の座をめぐる激しい抗争が展開されることとなった。16世紀初頭、今川氏親(今川義元の父)は斯波氏を破って遠江の守護権を確立し、駿河・遠江を網羅する強力な領国支配(戦国大名化)を推し進めた。

今川氏の没落と徳川・武田による「遠江争奪戦」

今川義元の時代、今川氏は三河国まで勢力を伸ばして「東海道の覇者」と呼ばれるにいたるが、1560年(永禄3年)の桶狭間の戦いで義元が織田信長に討たれると、遠江の支配権は急速に動揺した。これに乗じたのが、三河から東進を図る徳川家康と、甲斐から南下を狙う武田信玄である。両者は当初、今川領の分割を密約して遠江と駿河へそれぞれ侵攻し、家康は1568年(永禄11年)に遠江の大部分を制圧した。

しかし、まもなく徳川氏と武田氏の対立が表面化する。1572年(元亀3年)、将軍・足利義昭の信長包囲網の呼びかけに応じた武田信玄が遠江へ本格侵攻を開始し、遠江の三方ヶ原の戦いにおいて、徳川・織田の連合軍は壊滅的な大打撃を被った。信玄の急死によって徳川氏は滅亡を免れたものの、その後も武田勝頼との間で、高天神城などをめぐる凄惨な城塞争奪戦が展開された。最終的に徳川氏が遠江の完全領有を果たしたのは、1582年(天正10年)の武田氏滅亡の時であった。

徳川家康の拠点「浜松城」と豊臣政権下の変遷

徳川家康は、遠江支配および武田氏に対する防衛の拠点として、旧今川方の曳馬城を拡張・整備し、浜松城と改称した。家康は1570年(元亀元年)から1586年(天正14年)に駿府城(駿河国)へ移るまでの約17年間をこの浜松城で過ごした。この時期に三方ヶ原の戦いや長篠の戦いなどを経験し、過酷な状況の中で強固な徳川家臣団を育成したことから、浜松城はのちに「出世城」と呼ばれるようになる。

1590年(天正18年)、豊臣秀吉による小田原征伐を経て徳川家康が関東へ移封されると、遠江は豊臣系大名の領地となった。浜松城には堀尾吉晴が、遠江東部の重要拠点である掛川城には山内一豊が配置され、関東の家康を監視する最前線としての役割を担わされた。関ヶ原の戦い以降は再び徳川氏の支配下(江戸幕府の直轄地および譜代大名の藩領)に戻り、東海道を抑える軍事・交通の要地として、明治維新にいたるまで重視され続けた。

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最終更新:2026年6月17日 @ 23:49

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