円高不況 (えんだかふきょう)
【概説】
1985年のプラザ合意を契機とした急激な円高により、日本の輸出産業を中心に業績が悪化し、一時的に陥った経済不況。戦後の日本経済を牽引してきた輸出主導型の成長モデルが、大きな転換を迫られる契機となった。
プラザ合意と急激なドル安・円高の進行
1980年代前半、アメリカはレーガン政権のもとで高金利政策をとっており、これがドル高をもたらして巨大な貿易赤字(双子の赤字の一つ)を生み出していた。特に日本に対する貿易赤字が深刻化し、日米間の貿易摩擦は極めて深刻な政治問題となっていた。こうした状況を打開するため、1985年9月、先進5カ国(G5)の蔵相と中央銀行総裁がニューヨークのプラザホテルに集まり、ドル高是正のための外国為替市場への協調介入(プラザ合意)に合意した。
この合意以降、外国為替市場では各国の協調売りによって急速な円高ドル安が進行した。合意直前に1ドル=240円台だった為替レートは、わずか1年後には1ドル=150円台へと急騰し、日本の輸出産業はかつてない為替変動の波にさらされることとなった。
輸出産業の危機と「産業の空洞化」の兆候
急激な円高は、日本の主力産業であった自動車や電機などの輸出企業の価格競争力を一挙に低下させた。輸出の採算が極度に悪化したことで、中堅・中小企業をはじめとする多くの輸出関連企業が業績悪化に陥り、設備投資の抑制や雇用の調整が行われた。これにより日本経済は一時的に深刻な景気後退に陥り、これが円高不況と呼ばれる事態である。
この不況を克服するため、日本の製造業は生産拠点を国内から人件費や操業コストの安い海外(特に東南アジアや北米)へと急速に移転し始めた。これは現地での雇用創出や貿易摩擦の緩和に寄与した一方で、日本国内の製造業の衰退や雇用の減少を招く産業の空洞化という新たな課題を生み出す契機となった。
内需主導への転換とバブル経済への序曲
政府および日本銀行は、円高不況による景気後退を阻止し、また国際社会から求められた「内需主導型経済への転換」を果たすため、強力な景気刺激策を打ち出した。日本銀行は1986年から1987年にかけて政策金利である公定歩合を段階的に引き下げ、当時としては史上最低の2.5%とする超低金利政策を実施した。同時に、政府も公共投資の拡大を中心とする大型の財政出動を行った。
これらの政策により、日本経済は内需(個人消費や住宅投資)を中心に急速に回復へ向かい、円高不況自体は短期間で終息した。しかし、この局面で行われた長期にわたる金融緩和と過剰な資金流動性は、のちに株式や土地への投機熱を異常に高めることとなり、1980年代後半のバブル経済を引き起こす決定的な要因となった。