美濃
【概説】
現在の岐阜県南部に位置する東山道の令制国。戦国時代に斎藤道三が守護の土岐氏を追放して「下剋上」を成し遂げ、のちに織田信長がこれを奪取して「天下布武」を掲げた天下統一事業の最大拠点となった地である。
地理的要衝としての美濃と「天下の岐路」
美濃国は、現在の岐阜県南部に位置する。北には飛騨高地、東には木曽山脈がそびえ、南には伊勢湾へと注ぐ木曽三川(木曽川・長良川・揖斐川)が形成する広大な濃尾平野が広がる。古くから東国と西国を結ぶ結節点であり、古代には壬申の乱の勝敗を分けた不破関が置かれるなど、交通・軍事上の最重要拠点であった。戦国時代において「美濃を制する者は天下を制す」と評されたのは、この地を掌握することが畿内への進出や東国への備えにおいて、地政学的に決定的な意味を持っていたからにほかならない。また、豊かな河川流域は高い農業生産力を誇り、経済的にも大きな魅力を持っていた。
斎藤道三による「下剋上」と国盗り
室町時代の美濃は、足利一門の守護大名である土岐氏が支配していたが、戦国時代に入ると度重なる家督争いによってその権威は失墜していった。この混乱に乗じて台頭したのが、油商人から身を起こしたとも伝えられる斎藤道三(利政)である。道三は守護代の長井氏を乗っ取り、さらに守護の土岐頼芸を国外へ追放して美濃一国を掌握した。これは戦国期における「下剋上」の典型例として有名である。道三は急峻な金華山にそびえる稲葉山城を拠点として領国支配を固めたが、のちに嫡男の斎藤義龍と対立し、1556年の長良川の戦いにおいて討ち死にを遂げた。
織田信長の美濃奪取と「天下布武」への跳躍
尾張国を統一した織田信長は、斎藤道三の娘(帰蝶/濃姫)を正室に迎えていた。信長は道三から美濃国を譲るという意志を示した「美濃譲り状」を大義名分とし、道三の死後に本格的な美濃侵攻を開始する。斎藤氏内部の動揺を誘い、美濃三人衆(稲葉一鉄・安藤守就・氏家卜全)ら有力国人を味方に引き入れた信長は、1567年に稲葉山城を攻略して美濃平定を成し遂げた。
美濃を手に入れた信長は、拠点を稲葉山から移して地名を「岐阜」と改めた。これは中国の歴史において周の文王が「岐山」から起こって天下を統一した故事にちなんだものであり、信長はこの地から「天下布武」の朱印を用い始めた。さらに、岐阜城下において楽市楽座を断行して流通を活性化させ、城下町の整備を進めた。このように、美濃は単なる一征服地にとどまらず、信長が京都への上洛を果たし、天下人への道を歩むための強固な軍事的・経済的基盤となったのである。