厳島神社 (いつくしまじんじゃ)
【概説】
広島県廿日市市の宮島(厳島)に鎮座する、全国に約500社ある厳島神社の総本社。平安時代末期に平清盛が平家一門の氏神として厚く信仰し、海上に浮かぶ現在の寝殿造様式の社殿を造営した。平家の繁栄とともに栄華を極め、独自の海上信仰や豊かな平安美術を現在に伝えている。
厳島信仰の起源と古代の展開
厳島(宮島)は、最高峰の弥山(みせん)をはじめとする島全体が神霊の宿る神体山として、古くから自然信仰の対象であった。社伝によれば、推古天皇元年(593)に地元の有力者であった佐伯鞍職(さえきのくらもと)が、神の託宣を受けて創建したと伝えられている。祭神は宗像三女神(市杵島姫命、田心姫命、湍津姫命)であり、古代から瀬戸内海の海上交通の守護神として信仰されていた。
平安時代中期の国家制度について記された『延喜式』神名帳には名神大社として記載されており、安芸国(現在の広島県西部)の一宮として地域の厚い崇敬を集めていた。しかし、この時点ではまだ地方の有力な神社の一つに過ぎず、全国的な知名度を持つまでには至っていなかった。
平清盛による造営と平家の氏神としての隆盛
厳島神社が全国的な存在へと飛躍する最大の契機となったのは、平安時代末期の平清盛による庇護である。久安2年(1146)に安芸守に任じられた清盛は、日宋貿易の推進と瀬戸内海航路の掌握を国家構想の柱としており、航海の安全を祈願して厳島神社を深く信仰した。本来、伊勢平氏の氏神は別の神社であったが、清盛の厚い信仰により、厳島神社はやがて平家一門の総氏神として尊崇されるようになった。
仁安3年(1168)頃、清盛の多大な援助によって、海上に浮かぶ大規模な社殿が造営された。清盛が太政大臣に昇りつめ、平家が絶頂期を迎えるなか、厳島神社には清盛をはじめ、後白河法皇や建春門院、高倉上皇など多くの皇族や都の貴族が次々と参詣した。これにより、西国の辺境であった厳島に、当時の最先端である華やかな都の雅(みやび)な文化がもたらされたのである。
独自の建築様式と至宝『平家納経』
清盛が造営した社殿は、平安貴族の住宅様式である寝殿造を神社建築に取り入れたものであり、潮の干満を利用して海上に建つ世界的にも稀有な構造を持つ。この海上社殿は、神聖な島に建物を建てることを畏れ、陸地を避けて海上に造営したという信仰上の理由に加え、仏教の浄土思想に基づく極楽浄土や、海神の住む龍宮城を現世に現出したものとも評価されており、自然の景観と人工美が見事に調和している。
また、平家一門の繁栄を祈願して長寛2年(1164)に奉納された『平家納経』は、厳島神社が所蔵する最大の至宝である。法華経を中心に全33巻からなり、金銀の箔や砂子をふんだんに用いた装飾経で、当時の工芸や書道、絵画の技術の粋を集めた平安時代末期の仏教美術の最高傑作として国宝に指定されている。さらに、清盛によって大阪の四天王寺などから移された舞楽も奉納されるようになり、厳島神社は独自の壮麗な宗教空間を形成していった。
中世以降の展開と歴史的意義
平家滅亡後も、厳島神社は源頼朝をはじめとする鎌倉幕府、さらには室町幕府の足利将軍家からも武神・海上守護神として手厚い保護を受けた。戦国時代には、弘治元年(1555)の厳島の戦いで陶晴賢を破った毛利元就が戦火で荒廃した社殿の大規模な修復を行い、豊臣秀吉も九州平定の途上に参詣し、大経堂(現在の千畳閣)を建立している。
このように厳島神社は、時の権力者たちの庇護を受けながら、瀬戸内海交通の要衝における信仰の拠点として機能し続けた。平清盛の壮大な構想と平安貴族文化の美意識が結実したその景観と歴史的価値は高く評価され、1996年にはユネスコの世界文化遺産に登録されている。日本の宗教文化と政治権力の結びつきを示す極めて重要な歴史的遺産である。