六角承禎(義賢) (ろっかくじょうてい/よしかた)
【概説】
戦国時代から安土桃山時代にかけて、近江国南部を支配した守護大名。家臣団の反発を招いたお家騒動の後、大名主権を制限し家臣団との誓約形式をとる独自の分国法を制定した。後に織田信長の上洛を阻もうと激しく抵抗したが敗れ、大名としての六角氏は没落した。
「観音寺騒動」と「六角氏式目」の制定
六角承禎(義賢)の父・六角定頼の時代、六角氏は先進的な楽市令の創始や室町幕府との深い結びつきを通じて、中央政治にも強い影響力を誇る全盛期を築いていた。しかし、承禎が家督を嫡男の義治に譲った後の永禄6年(1563年)、六角氏の権力を揺るがす大事件が発生する。承禎・義治父子が、人望の厚かった重臣・後藤賢豊を観音寺城内で暗殺した観音寺騒動である。
この主君による専制的な暴挙に対し、家臣団は激怒して一斉に反発し、六角父子を居城から追放する事態に至った。この深刻な主従対立を調停・収拾するために、永禄10年(1567年)に制定されたのが分国法六角氏式目(あるいは義治式目)である。一般的な戦国大名の分国法が大名による一方的な領国支配の規律であるのに対し、この式目は家臣団の要求を大幅に容れ、大名の専権を抑止して合議制を認めさせるなど、主従が互いに遵守を誓い合う「起請文」の形式をとった。日本の法制史上、きわめて先進的かつ特異な、制限君主制的な性格を持つ法典として知られている。
織田信長との対立と没落
内憂を抱えた状態の六角氏に対し、永禄11年(1568年)、足利義昭を奉じて上洛を目指す織田信長の軍勢が迫った。信長からの臣従要求に対し、承禎はこれを拒絶して対決姿勢を明確にしたが、信長軍の圧倒的な軍事力を前に国人領主らの離反が相次ぎ、本拠の観音寺城はわずか数日で落城した(観音寺城の戦い)。
これにより戦国大名としての領国支配権は失われたが、承禎は甲賀の山間部などに潜伏し、三好三人衆や一向一揆、あるいは浅井・朝倉氏らと連携して信長包囲網の一翼を担い、執拗なゲリラ戦を展開した。その後も反信長の抵抗を続けたが勢力の挽回には至らず、本願寺の降伏や武田氏の滅亡とともに抵抗は終息した。晩年は豊臣秀吉の御伽衆となるなどし、石部城(現在の滋賀県湖南市)の周辺で余生を過ごしたと伝えられている。