鹿児島
【概説】
薩摩国(現在の鹿児島県)に位置する城下町・港町。中世から近世にかけて南九州を支配した島津氏の本拠地であり、1549年にフランシスコ・ザビエルが上陸したことで知られる。日本におけるキリスト教伝来の地となり、海外に開かれた南の玄関口として重要な歴史的役割を果たした。
島津氏の本拠地としての形成と発展
鎌倉時代に島津忠久が薩摩・大隅・日向の守護に任じられて以来、島津氏は南九州に根を張ったが、鹿児島が本格的な本拠地として整備されたのは室町時代後期から戦国時代にかけてのことである。一族内の激しい内紛を収束させて戦国大名としての地位を確立した島津貴久は、鹿児島に内城(うちじょう)を築き、家臣団を集住させて城下町を形成した。同時に、海に面した地の利を活かして港町としての機能も拡充させ、鹿児島は南九州における政治・経済の中心地へと成長していった。
ザビエル上陸と西洋文化の窓口
鹿児島の歴史的意義において最も特筆すべきは、1549(天文18)年、イエズス会の宣教師フランシスコ・ザビエルが上陸したことである。マラッカで薩摩出身のヤジロウ(アンジロー)と出会ったザビエルは、彼の案内により鹿児島に上陸し、これが日本へのキリスト教伝来の第一歩となった。
ザビエルは島津貴久に謁見して布教の許可を得るとともに、鉄砲などの西洋技術や南蛮の品々をもたらした。島津氏にとって、宣教師の保護はポルトガル船との南蛮貿易による富や、最新兵器である鉄砲を獲得するための外交戦略でもあった。このように、当時の鹿児島は日本がいち早く西洋と接触し、異国文化を吸収する最前線の窓口として機能していたのである。
九州制覇の拠点と豊臣秀吉の平定
安土桃山時代に入ると、島津義久・義弘ら兄弟は鹿児島を拠点として九州統一戦に乗り出した。日向の伊東氏や肥前の龍造寺氏、豊後の大友氏といった有力大名を次々と打ち破り、強力な軍事力で九州の大部分を制圧した。この時期の鹿児島は、強大な大名権力を誇る島津軍団の心臓部として威容を誇っていた。
しかし、大友氏の救援要請を受けた豊臣秀吉が1587(天正15)年に大軍を率いて九州平定に乗り出すと、島津氏は圧倒的な兵力差の前に降伏を余儀なくされた。秀吉の戦後処理により、島津氏は薩摩・大隅などの本領を安堵され、引き続き鹿児島を本拠とすることが認められたが、これによって鹿児島も豊臣政権下の全国的な幕藩体制へと組み込まれていくこととなった。
近世城下町への移行と南の玄関口としての役割
関ヶ原の戦いを経て徳川幕府へと移行する激動の時代において、鹿児島は次なる変貌を遂げる。1601(慶長6)年、初代薩摩藩主となった島津家久(忠恒)は、鹿児島の地に新たに鹿児島城(鶴丸城)を築城した。背後に城山を控えたこの城を中心に、広大な武家屋敷が立ち並ぶ77万石の大規模な城下町が整備されたのである。
また、1609(慶長14)年の琉球出兵以降、鹿児島は琉球王国を通じた対明・対清貿易の拠点ともなった。鎖国体制下にあっても「四つの口」の一つである薩摩口として、外の世界とつながり続けたのである。戦国・安土桃山時代に培われた海外志向と進取の気性は、近世を通じて鹿児島の地に蓄積され、のちに幕末・明治維新を強力に牽引する原動力となっていった。