山科 (やましな)
【概説】
浄土真宗中興の祖である蓮如が、京都郊外に築いた山科本願寺を中心に形成された寺内町。堀や土塁に囲まれた堅固な城郭都市であり、「仏国の如し」と称されるほどの繁栄を誇った。しかし、1532年に勢力拡大を恐れる法華衆や近江守護・六角氏の連合軍による焼き討ちにあい、焼失した。
蓮如による山科本願寺の造営と「寺内町」の誕生
室町時代中期、比叡山延暦寺の迫害(寛正の法難)によって京都を追われた本願寺第8世・蓮如は、北陸の越前吉崎などで精力的な布教を行い、急速に門徒(一向衆)を拡大した。その後、再び畿内での布教基盤を確立するため、1478(文明10)年に山科(現在の京都市山科区)において本願寺の造営を開始した。これが山科本願寺である。
山科は京都と東国・北陸を結ぶ交通の要衝であり、軍事・経済の双方において極めて重要な立地であった。この地に築かれた本願寺の周囲には、参詣に訪れる門徒や彼らを対象とする商工業者が集まり、自律的な都市である寺内町が形成されていった。山科本願寺は、広大な境内を二重の堀や巨大な土塁で囲み、事実上の城郭都市としての実態を備えていた。
「仏国の如し」と称された自治都市の繁栄
最盛期の山科は、周囲の戦国大名による不入権(守護使不入)を認めさせ、独自の警察権や裁判権、免税権を行使する強大な自治都市へと成長した。その繁栄ぶりは、公家である興福寺の尋尊が日記『尋尊大僧正記』において「寺内広大、無双の荘厳、仏国の如し」と感嘆を込めて記録したほどであった。
このように、宗教的結束を基盤とした強固な独立空間が京都の目と鼻の先に現出したことは、既存の政治秩序を揺るがす存在として、室町幕府や周辺の戦国大名、さらには京都の町衆に強い警戒感を与えることとなった。
山科本願寺の焼失と石山本願寺への移転
1532(天文元)年、細川晴元や近江の戦国大名である六角定頼、そして本願寺(一向宗)と激しく対立していた京都の日蓮宗信徒(法華衆)らの連合軍が山科を急襲した。この山科本願寺の戦い(天文の錯乱の一環)によって、山科の寺内町は徹底的に焼き払われ、灰燼に帰した。
この壊滅により、本願寺第10世・証如は拠点を大坂の摂津石山(現在の大阪城付近)へと移し、石山本願寺として再建を図ることとなる。山科での自治都市の経験と武装化の歴史は、後の織田信長との間で繰り広げられた10年におよぶ激しい「石山合戦」へと受け継がれていく。山科の繁栄と崩壊は、戦国期における宗教勢力の台頭と、それに伴う中世的権力の衝突を象徴する歴史的事象であった。