坊津 (ぼうのつ)
【概説】
薩摩国(現在の鹿児島県南さつま市)に位置する、中世から近世にかけて栄えた歴史的な港町。日本列島の南端に位置する地理的優位性から、遣唐使の寄港地や海外交易の拠点として機能し、戦国時代から安土桃山時代には島津氏の庇護のもとで中国(明)や琉球、東南アジアとの密貿易(私貿易)で大いに繁栄した。
古代・中世における避難港から「日本三津」への発展
坊津は、東シナ海に面した深い入り江を持つ天然の良港であり、古くから海上交通の要衝として知られていた。奈良時代には鑑真が日本に上陸した地と伝えられ、遣唐使船の南路における最後の寄港地や、暴風雨を避けるための避難港として機能した。
中世に入ると、近衛家領島津荘の寄郡となり、京都の近衛家や坊津の有力寺院である一乗院を介して中央の文化や資金が流入した。これにより、坊津は単なる地方の港から、先進的な宗教・文化が息づく国際貿易港へと変貌を遂げる。明代中国の兵法書『武備志』において、伊勢国の「大湊」、越前国の「三国湊」と並び、日本を代表する港湾である「日本三津(さんしん)」の一つに数えられたことは、その繁栄ぶりを象徴している。
戦国・安土桃山時代の国際交易と「密貿易」の展開
戦国時代から安土桃山時代にかけて、坊津は薩摩の戦国大名・島津氏の重要な財政基盤となった。島津氏は、明が公式な貿易を制限する「海禁政策」をとる中で、坊津を拠点として明の商人や倭寇(後期倭寇)との非公式な私貿易(密貿易)を黙認・保護した。これにより、坊津には中国産の生糸や陶磁器、漢方薬などがもたらされ、日本からは銀や硫黄、刀剣などが輸出された。
また、近世への過渡期においては、琉球王国やポルトガル、スペイン、東南アジア諸国との交易ルートも形成された。豊臣秀吉が「海賊停止令」や「バテレン追放令」を発令して海上支配と貿易統制を強めた際にも、中央の目が届きにくい地理的状況を利用し、島津氏の独自の「密貿易」拠点としての役割を果たし続けた。この貿易によって蓄えられた富と最新の海外情報は、島津氏が九州南部に強大な勢力を築き、豊臣政権や徳川政権に対して独自の地位を保ち続ける原動力となった。
江戸幕府の「鎖国」体制と坊津の衰退
江戸時代に入ると、幕府によるいわゆる「鎖国」体制(対外制限策)が段階的に整備され、海外交易の窓口は長崎に一本化されることとなった。これにより、坊津での公然たる海外交易は厳しく制限され、かつての国際港としての華やかな繁栄は終焉を迎えた。
しかし、薩摩藩は藩財政を支えるため、幕府の目を盗んで坊津や周辺の隠れ港で「抜荷(ぬけに)」と呼ばれる密貿易を継続した。これらは厳しい取り締まりの対象となったが、琉球を介した間接的な中国貿易(琉球口)とともに、薩摩藩の隠れた財源であり続けた。坊津は、日本の対外関係が閉ざされていく時代にあっても、海の向こうの世界と日本をつなぎ続けた、境界の港町としての歴史的特異性を持っている。