自治都市
【概説】
室町時代後期から安土桃山時代にかけて、外部の領主や大名の支配を排し、裕福な商人たちの合議によって独自の警察権や行政権を行使した都市。
堺や博多、京都などが代表的であり、強大な経済力と防衛機能を背景に高度な自治を実現したが、のちに織田信長や豊臣秀吉ら天下人の強力な武力と政策によって解体・再編されていった。
商業の発展と「町衆」の台頭
室町時代後期、農業生産力の向上に伴って流通経済が活発化し、各地の交通の要衝や港湾を中心に都市が形成・発展した。こうした都市では、経済力を蓄えた裕福な商人や手工業者が台頭し、彼らは町衆(まちしゅう)と呼ばれた。農村部において農民たちが形成した「惣村(そうむら)」の地縁的な結合と自治の気風は、都市部にも波及した。外部の守護大名や国人領主の不当な課税や介入、あるいは絶え間ない戦乱から自らの生命と財産を守るため、都市民の間で自衛と自治の機運が高まっていったのである。
代表的な自治都市とその運営構造
自治都市として日本史上で最も著名なのは和泉国の堺である。日明貿易や琉球貿易の拠点として繁栄した堺では、36人の会合衆(えごうしゅう)と呼ばれる有力商人(納屋衆)が合議によって都市の行政・司法・警察を運営した。都市の周囲に深い堀を巡らせて環濠都市を形成し、牢人(傭兵)を雇い入れて大名にも対抗しうる軍事的な独立性を保った。この高度な自治の様子は、来日したキリスト教宣教師ガスパル・ヴィレラによって「東洋のベニスのごとし」と称賛されている。
また、筑前国の博多も古くから対外貿易で栄えた港町であり、ここでは12人の年行司(ねんぎょうじ)と呼ばれる豪商たちが自治を行った。神屋宗湛や島井宗室などの豪商が活躍したことでも知られる。さらに、日本の中心であった京都においても、応仁の乱による荒廃から復興する過程で、上京と下京に分かれた町衆たちが「月行事(つきぎょうじ)」を置いて自治的な惣町(そうまち)を形成し、戦乱で中断していた祇園祭を独力で復興させるほどの経済力と強固な団結力を示した。その他にも、摂津の平野(平野郷)や伊勢の大湊など、各地に同様の自治的性格を持つ都市が存在した。
「自由都市」としての特質と限界
これら日本の自治都市は、中世ヨーロッパにおける自由都市(帝国都市)としばしば対比される。豊富な資金力を背景に、伝来したばかりの鉄砲などの新兵器をいち早く調達し、戦国大名の介入を跳ね除けるほどの自立性を有していた点は特筆に値する。しかし、ヨーロッパの都市が国王や皇帝から特許状を獲得して法的な「自治権(都市法)」を確立していたのに対し、日本の自治都市の独立性はあくまで富と武力という「実力」に依存する事実上のものに過ぎなかった。大名や朝廷・幕府といった既存の権威と完全に断絶することはなく、法的な保障を持たないという制度的な未成熟さも孕んでいた。
天下人による都市支配と自治の終焉
戦国時代末期、強大な軍事力によって天下統一を進める織田信長が登場すると、自治都市はその独立性を大きく脅かされることとなった。1568年、上洛を果たした信長は堺に対して莫大な矢銭(軍資金)の支払いを要求した。一部の会合衆は三好氏と結んで徹底抗戦を試みたものの、最終的には信長の圧倒的な武力の前に屈し、堺は直轄領(蔵入地)として信長の支配下に組み込まれた。
続く豊臣秀吉の時代になると、大坂城の築城に伴って堺の有力商人が大坂へ強制移住させられ、防衛の要であった環濠も埋め立てられるなど、物理的にも自治の基盤が完全に解体された。博多においても、秀吉による九州平定後の1587年に「太閤町割(たいこうまちわり)」が実施され、都市の復興とともに豊臣政権の強力な統制下に置かれた。
こうして、中世の終わりに自由と自治を謳歌した都市は、天下人の一元的な権力によって解体された。そして、近世的な城下町や幕府の直轄都市へと再編されていくこととなり、日本の都市は幕藩体制下の厳格な身分・社会統制の枠組みへと組み込まれていったのである。