マニラ

1571年にスペインが占領して総督府を置き、アジアにおける貿易とカトリック布教の最大の拠点とした都市はどこか?
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重要度
★★

マニラ

1571年~

【概説】
フィリピン諸島のルソン島に位置する港湾都市。1571年にスペインによって占領され、同国のアジアにおける植民地支配、対中・対日貿易、およびカトリック布教の最大拠点となった地。

スペインのアジア進出とマニラの建設

16世紀後半、大航海時代のスペインはメキシコ(新スペイン副王領)を経由して太平洋を横断し、アジアへの進出を本格化させた。1571年、初代フィリピン総督ロペス・デ・レガスピがルソン島のマニラを占領して要塞都市を建設。これにより、メキシコの港アカプルコとマニラを結ぶガレオン貿易(マニラ・ガレオン)が確立した。

マニラには中国(明)の商船が多数来航し、中国産の生糸や陶磁器がメキシコへと運ばれ、その対価として大量のメキシコ銀がマニラを経由してアジアへと流入した。マニラは、グローバルな世界経済と東アジア交易ネットワークを結ぶ、極めて重要な中継港となったのである。

日明貿易の補完とルソン助左衛門

安土桃山時代の日本にとって、マニラは当初、中国産の高級生糸(白糸)を調達するための重要な交易地として認識された。明が日本に対して海禁政策(日本船の来航禁止)をとっていたため、日本の商人たちはマニラへ赴き、そこで中国商人と間接的な取引を行った。また、キリスト教の布教を望むスペイン側も、日本との本格的な交易を望んでいた。

この時期にマニラへ渡った代表的な商人が、和泉国堺のルソン助左衛門(呂宋助左衛門)である。彼はマニラから「ルソン壺」と呼ばれる現地の日用品(陶器)を持ち帰り、これを茶器として豊臣秀吉らに売り込んで巨万の富を築いた。マニラは一攫千金を夢見る日本の商人にとって、富の源泉となる魅力的な地であった。

安土桃山・江戸初期における外交緊張と貿易の終焉

豊臣秀吉の天下統一後、マニラは外交・軍事的な対立の舞台となった。秀吉はマニラのフィリピン総督に対して服属と朝貢を求める強硬な国書を送り、スペイン側を緊張させた。さらに、マニラから来航したフランシスコ会などの宣教師が日本国内で布教を活発化させたことは、1596年のサン=フェリペ号事件および1597年の二十六聖人殉教(キリシタン処刑)を引き起こす契機となった。

徳川家康の時代になると、当初はマニラとの公式な貿易(朱印船貿易)が推奨され、日本からマニラへは朱印船が多数派遣された。しかし、スペイン側が通商よりもカトリック布教を優先したことや、オランダ・イギリスが日本へ接近して「スペインの侵略の野望」を警告したため、幕府は対スペイン警戒を強めた。最終的に幕府は、禁教政策の徹底を理由に1624年にスペイン船の来航を禁止し、マニラとの通商・外交関係は断絶することとなった。

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未知なる海域へと挑んだ冒険者たちの航跡を辿り、世界が一つに繋がっていく激動の時代の全貌を描き出した歴史の書。

物語 マニラの歴史

かつてアジアの交易拠点として繁栄を極めたマニラの、光と影が交錯する数奇な運命を紐解く都市の物語。

最終更新:2026年6月17日 @ 23:49

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