高山右近

明智光秀や豊臣秀吉に仕えた優れた武将であったが、信仰を捨てずバテレン追放令に抵抗して大名の地位を失った人物は誰か?
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★★★

高山右近 (たかやまうこん)

1552年〜1615年

【概説】
戦国時代から江戸時代初期にかけて活躍した畿内出身のキリシタン大名。豊臣秀吉のバテレン追放令や徳川幕府の禁教令に対しても自身の信仰を貫き通し、最終的にマニラへ追放された。千利休の高弟である「利休七哲」の一人としても知られ、政治・文化・宗教の多方面に足跡を残した人物である。

キリシタン大名としての出自と織田政権下での躍進

高山右近(洗礼名:ジュスト)は、摂津国三島郡高山(現在の大阪府豊能郡)の国人領主の家に生まれた。父・高山友照の影響を受け、12歳の時にキリスト教の洗礼を受ける。当初は摂津を支配した荒木村重に属して高槻城主を務めたが、村重が織田信長に対して反旗を翻した有岡城の戦い(1578年)において、大きな転機を迎える。信長から「降伏しなければ畿内のキリシタンを弾圧する」との脅迫を受けた右近は、苦渋の決断の末に村重から離反し、信長に降伏した。その後は織田政権下で重用され、高槻城下に教会や神学校(セミナリヨ)を建設するなど、キリスト教の保護と布教に尽力し、高槻を畿内におけるキリシタンの重要な拠点へと発展させた。

豊臣政権下での活躍とバテレン追放令による改易

本能寺の変後、右近は直ちに豊臣秀吉に与し、山崎の戦いや賤ヶ岳の戦いで武功を挙げた。その功績により播磨国明石に転封され、大名としての地位を確固たるものにする。しかし、1587年(天正15年)の九州平定の途上、秀吉は突如としてバテレン追放令を発布する。長崎がイエズス会に寄進されていたことや、キリスト教がもたらす一向一揆に似た宗教的結束を秀吉が恐れたことが背景にあった。多くのキリシタン大名が保身のために棄教を装う中、右近は信仰を捨てることを断固として拒否した。その結果、秀吉の怒りを買って領地を没収(改易)され、大名の地位を失うこととなった。

「利休七哲」の一人としての文化的な側面

右近は熱心な宗教家や武将としてのみならず、優れた文化人としても名を馳せていた。茶道の大成者である千利休に師事し、その高弟である「利休七哲」の一人に数えられている。彼の茶の湯には、キリスト教のミサで使用される聖具を思わせる意匠が用いられるなど、南蛮文化と日本の伝統文化を融合させた独自の美意識が反映されていたとされる。改易後、流浪の身となった右近を庇護したのは、同じく利休の弟子であった加賀の前田利家であった。前田家において右近は客将として優遇され、金沢の城下町整備や築城技術の指導にあたるなど、加賀藩の基礎固めにも大きく貢献した。

江戸幕府の禁教令とマニラへの追放劇

豊臣秀吉の死後、徳川家康が覇権を握り江戸幕府が開かれると、当初は黙認されていたキリスト教に対する風当たりが再び強まる。幕府はキリスト教が封建支配の秩序を脅かす思想であると見なし、1614年(慶長19年)に全国的なキリシタン禁教令(国外追放令)を発布した。加賀で平穏な日々を送っていた右近もこの法令の対象となり、国外退去を命じられる。長崎から船に乗せられた右近は、他の宣教師や信徒らとともにスペインの植民地であったフィリピンのマニラへと追放された。マニラでは総督や現地の信徒たちから熱狂的な歓迎を受けたが、長旅の疲労や老齢、異国の気候が祟り、到着からわずか40日後に64歳の生涯を閉じた。権力に屈することなく純粋に信仰を貫徹したその生涯は、日本のキリシタン史において極めて重要な意義を持っている。

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信仰を貫き通した稀代の武将の生涯を史料から丹念に掘り起こし、その実像と時代の精神を鮮明に描き出した学術的評伝。

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権力や領地を捨ててでも神への忠義を選び抜いた孤高の精神に迫り、数奇な運命を辿ったキリシタン大名の本質を突く一冊。

最終更新:2026年6月17日 @ 23:49

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