岐阜城 (ぎふじょう)
【概説】
美濃国井ノ口の金華山(かつての稲葉山)山頂に位置し、織田信長の天下統一事業において最初の本格的な拠点となった山城。永禄10年(1567年)に斎藤氏の本拠であった稲葉山城を攻略した信長が、地名を「岐阜」と改め、城名も岐阜城とした。戦国期における城郭のあり方を「軍事要塞」から「権威の象徴」へと変革させた先駆的な城として、日本城郭史上きわめて重要な意義を持つ。
「岐阜」改名と「天下布武」の始動
美濃国の斎藤龍興を排して国持大名となった織田信長は、本拠地を小牧山城から移し、それまでの「稲葉山城」から「岐阜城」へと改称した。「岐阜」の由来は、政僧・沢彦宗恩(たくげんそうおん)の進言によるものとされ、古代中国の周王朝が興った地である「岐山」と、儒教の祖である孔子の生誕地「曲阜」から一字ずつ取ったとされる。これは、信長自らが周の文王のように天下を統一し、道徳的秩序を再建するという強い意志の表れであった。信長はこの頃から「天下布武」の朱印を使用し始めており、岐阜城はまさに武力をもって天下に静謐をもたらす政権構想のシンボルとなったのである。
「魅せる城」への革新とルイス・フロイスの驚嘆
岐阜城の最大の特徴は、それまでの戦闘に特化した「山城」の概念を覆し、支配者の圧倒的な権威を周囲に示す「魅せる城」へと転換させた点にある。金華山の山頂部には、四重(または三重)の天守に類する象徴的な建造物が築かれ、麓には広大な「信長公居館」が造営された。この山麓の居館は、巨石を用いた石垣や人工の滝、庭園、さらには金碧に輝く対面所などを配した極めて豪華絢爛なものであった。永禄12年(1569年)にこの地を訪れたポルトガルの宣教師ルイス・フロイスは、その著書『日本史』において、居館の壮麗さをバビロンの宮殿にも擬して絶賛している。こうした「山頂の象徴的建物」と「山麓の豪華な居館」という構成は、後に信長が築く安土城や、豊臣秀吉の大坂城へと連なる、近世城郭のプロトタイプとなった。
関ヶ原の戦いと岐阜城の終焉
天正4年(1576年)、信長が本拠を安土城へ移すと、岐阜城は長男の織田信忠に譲られた。本能寺の変による信長・信忠の横死後は、清洲会議を経て織田信孝、次いで池田輝政や豊臣秀勝らが城主を歴任した。豊臣政権末期には、信長の嫡孫である織田秀信(幼名:三法師)が城主となったが、慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いにおいて、秀信は石田三成率いる西軍に与した。このため、東軍の福島正則や池田輝政らの猛攻を受け、激しい攻防戦の末に落城した(岐阜城の戦い)。関ヶ原の戦いの翌年である慶長6年(1601年)、徳川家康は岐阜城の廃城を決定。城の部材や天守の資材は、新たに平地に築かれた加納城へと移築され、中世から戦国を生き抜いた峻険な山城としての歴史に幕を閉じた。