柴田勝家

織田信長の筆頭家老として北陸方面を任されたが、信長の死後に羽柴秀吉と対立して敗死した猛将は誰か?
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重要度
★★

柴田勝家 (しばたかついえ)

1522年?〜1583年

【概説】
戦国時代から安土桃山時代にかけて活躍した、織田信長の最有力重臣(宿老)。「鬼柴田」の異名を持つ勇猛な武将であり、越前国を拠点に北陸地方の平定にあたった。本能寺の変後は織田家後継者をめぐって羽柴秀吉と対立し、賤ヶ岳の戦いで敗れて自害した。

織田家の宿老から「北陸方面軍」総司令官へ

柴田勝家は当初、織田信長の父・信秀に仕え、信秀没後はその弟である信勝(信行)を家督に据えようとして信長と敵対した。しかし「稲生の戦い」で敗れたのちは信長に忠誠を誓い、その一騎当千の武勇から「鬼柴田」「かかれ柴田」と称される織田家筆頭の重臣となった。姉川の戦いや長篠の戦いなどの主要な合戦で軍功を重ね、信長の信頼を獲得していった。

1575年、信長が越前の一向一揆を平定すると、勝家は越前国八郡を与えられて北ノ庄城(現在の福井県福井市)を築いた。勝家は北陸方面軍の総司令官に任じられ、前田利家や佐々成政らを従えて加賀や能登への侵攻を開始した。越後から南下を図る上杉謙信の軍勢に「手取川の戦い」で敗北するなどの苦境に立たされながらも、謙信の急死後は徐々に勢力を拡大し、北陸地方の平定を着実に進めていった。

本能寺の変と清洲会議における秀吉との対立

1582年、本能寺の変が勃発した際、勝家は越中国の魚津城で上杉景勝の軍勢と対峙していた。このため明智光秀討伐(山崎の戦い)への出兵が遅れ、備中高松城から迅速に「中国大返し」を成し遂げた羽柴秀吉に先手を越されることとなった。光秀討伐の主導権を握った秀吉の台頭は、勝家の地位を大きく揺るがすこととなった。

同年に開かれた織田家の後継者と遺領配分を決める清洲会議において、勝家は信長の三男である織田信孝を推薦した。しかし、秀吉が信長の嫡孫である幼少の三法師(のちの織田秀信)を擁立したため、主導権を奪われる結果となった。会議後、勝家は信長の妹であるお市の方を正室に迎えて織田家との絆を強め、秀吉への抗戦態勢を整えていった。

賤ヶ岳の戦いと織田家筆頭の終焉

1583年、ついに勝家と秀吉の全面対決となる賤ヶ岳の戦いが勃発した。当初は互角の攻防を見せたが、勝家の同盟者であった織田信孝や滝川一益らが秀吉によって各個撃破された。さらに、戦況の鍵を握っていた近臣の前田利家が戦線を離脱(のちに秀吉に降伏)したことにより、柴田軍の陣形は崩壊し、壊滅的な敗北を気した。

勝家は本拠地である北ノ庄城へと退いたが、秀吉の大軍に包囲され、もはやこれまでと覚悟を決め、妻のお市の方とともに城に火を放って自刃した。この勝家の滅亡により、織田家内部における秀吉の絶対的優位が確立され、戦国乱世の主導権は名実ともに秀吉へと移行し、天下統一への道が急速に進むこととなった。

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最終更新:2026年6月17日 @ 23:49

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