野口遵 (のぐちしたがう)
【概説】
明治後期から昭和期にかけて活動した実業家。日本窒素肥料(日窒)を核とする新興財閥「日窒コンツェルン」を一代で築き上げた人物。朝鮮半島における大規模な電源開発と、世界最大級の化学重工業コンビナート建設を主導し、日本の重化学工業化と植民地開発に決定的な役割を果たした。
電気化学工業への着目と「日窒」の創業
野口遵は1873年、石川県に生まれた。東京帝国大学工科大学電気工学科を卒業後、外資系企業勤務等を経て、1906年に鹿児島県で曽木電気を設立して水力発電事業を開始した。野口の独創性は、発電した電力を単に送電するだけでなく、自社で電気化学工業に利用するビジネスモデルを考案した点にある。彼は余剰電力を利用してカーバイドおよび石灰窒素(化学肥料)の製造に着手し、1908年に日本窒素肥料(日窒)を設立した。
大正期に入ると、野口はイタリアのカザレー社からアンモニア合成法の特許を導入し、水を用いたアンモニア合成の工業化に世界で初めて成功した。この技術革新により、日窒は安価で大量の化学肥料(硫安)の生産を可能にし、農業生産力の向上に貢献するとともに、一躍トップクラスの化学メーカーへと急成長を遂げた。
朝鮮進出と「興南コンビナート」の建設
1920年代後半、日本国内での電力開発や立地確保が限界に達しつつある中、野口は朝鮮総督府との緊密な連携のもと、植民地支配下の朝鮮半島へと急進的な進出を試みた。蓋馬(けいば)高原を流れる鴨緑江水系の圧倒的な水力を利用するため、赴戦江や長津江などで大規模な電源開発事業を強行。この莫大な電力を供給先として、朝鮮東海岸の興南(フンナム)に巨大な重化学工業コンビナート(朝鮮窒素肥料など)を建設した。
この興南コンビナートは、当時世界最大級の規模を誇り、化学肥料のみならず、軍事用爆薬の原料となる硝酸や各種金属材料などを生産した。野口の事業は朝鮮総督府の産業開発政策(宇垣一成総督による「農工並進政策」など)と完全に合致しており、植民地インフラの開発を牽引する一方で、現地労働者の過酷な使役や土地接収を伴う、帝国主義的な開発の象徴でもあった。
「新興コンツェルン」としての飛躍と歴史的帰結
昭和恐慌を経て、1930年代に日本が軍事色の強い準戦時体制へ移行する中、野口率いる日窒は、鮎川義介の日産コンツェルンなどと並び、新興財閥(新興コンツェルン)の代表格へと登りつめた。これら新興コンツェルンは、三井・三菱などの既成財閥が保守的な姿勢をとるのとは対照的に、軍部や革新官僚と密接に結びつき、重化学工業分野、とりわけ植民地や満州国における国策事業に積極参入して急速な自己肥大を遂げた。
野口は「朝鮮の国父」や「エネルギーの魔術師」ともてはやされ、満州国での事業展開(満州化学工業の設立など)にも関わったが、その繁栄は日本の植民地支配および侵略戦争の拡大と表裏一体であった。そのため、1945年の日本の敗戦により、日窒が朝鮮半島や満州に投資した莫大な資産はすべて没収され、コンツェルンは瓦解することとなった。しかし、野口が培った電気化学の技術や事業組織は、戦後の日本におけるチッソや旭化成、積水化学工業などの源流となり、さらに北朝鮮の工業化の土台ともなるなど、戦後の東アジア産業史に複雑で巨大な足跡を残した。