大坂城
【概説】
1583(天正11)年、羽柴(豊臣)秀吉が石山本願寺の跡地に築城を開始した、豊臣政権の権力の象徴となる巨大な城郭。壮大な天守や広大な惣構を備えた天下人の拠点として君臨したが大坂の陣で焼失し、のちに江戸幕府によって豊臣の痕跡を覆い隠すように再建された。
水陸交通の要衝と石山本願寺跡という立地
本能寺の変後、山崎の戦いや賤ヶ岳の戦いを経て織田信長の後継者としての地位を確立した羽柴(のちの豊臣)秀吉は、天下統一の新たな本拠地として大坂(現在の上町台地北端)を選定し、1583(天正11)年に大規模な築城を開始した。大坂はかつて浄土真宗の巨大な拠点である石山本願寺があった場所であり、信長が10年にも及ぶ石山合戦の末にようやく明け渡させた要地であった。
大坂が選ばれた最大の理由は、淀川や大和川の水系を通じて瀬戸内海と京都を結ぶ水運・陸運の要衝であったことである。秀吉はここに城を築くことで、西国を中心とする全国規模の物流と経済を掌握し、強力な中央集権体制を構築しようと目論んだ。
天下人・豊臣秀吉の権威の象徴
豊臣期の大坂城は、権力者の威信を視覚的に誇示するための画期的な建造物であった。本丸にそびえる天守は外観5重・内部8階建てといわれ、黒漆塗りの下見板張りに金箔瓦をふんだんに用いた豪華絢爛なものであったとされる。城内には「黄金の茶室」が設けられるなど、天皇や公家、そして服属した諸大名に対して、豊臣政権の圧倒的な財力を見せつける装置として機能した。
また、防衛施設としても極めて堅固であり、本丸・二の丸にとどまらず、城下町全体を堀と土塁で囲い込む広大な惣構(そうがまえ)を構築した。これにより、大坂城は政治・経済の中枢であると同時に、数十万の人口を内包する巨大な城郭都市として発展を遂げた。
大坂の陣と豊臣大坂城の落城
1598年に秀吉が没したのち、大坂城は遺児である豊臣秀頼と生母・淀殿の居城となった。江戸に幕府を開いた徳川家康との対立が深まると、1614(慶長19)年に大坂冬の陣が勃発する。この戦いでは、豊臣方に与した真田信繁(幸村)が惣構の南側の弱点を補うために「真田丸」と呼ばれる出丸を築き、徳川方の大軍を大いに苦しめ、城の防備の堅牢さを証明した。
しかし、冬の陣の和議の条件として、徳川方によって二の丸・三の丸の堀までもが徹底的に埋め立てられてしまう。惣構の防御力を完全に失い、内堀だけを残す「裸城」となった大坂城は、翌1615(慶長20)年の大坂夏の陣において徳川軍の総攻撃を支えきれずに落城し、秀頼らの自刃とともに炎上して灰燼に帰した。
徳川幕府による再建と西国支配の拠点
豊臣氏滅亡後、大坂城は一時的に松平忠明に与えられたが、1619年に幕府の直轄領(天領)に編入された。翌1620(元和6)年から、第2代将軍・徳川秀忠の命により、西国大名を動員した天下普請として大坂城の再建工事が開始された。
この徳川期の大坂城再建において特筆すべきは、豊臣時代の石垣や堀を数メートルから十数メートルもの大量の土砂で完全に埋め立て、その上に豊臣期よりもさらに高い石垣と天守を新たに築き上げた点である。これは単なる城の修築ではなく、地表から豊臣の記憶を物理的に抹消し、徳川の威信が豊臣を凌駕していることを天下に示すための強烈な政治的デモンストレーションであった。
以降、大坂城には譜代大名から任命される大坂城代が置かれ、西国大名の監視や上方支配の最重要拠点として、幕末の王政復古に至るまで江戸幕府を支え続けた。