賤ヶ岳の七本槍 (しずがたけのしちほんやり)
【概説】
1583年の賤ヶ岳の戦いにおいて、羽柴(豊臣)秀吉の側近として目覚ましい軍功を挙げた7人の若手武将の総称。加藤清正や福島正則らに代表され、秀吉の権力掌握と豊臣政権の確立を軍事・宣伝の両面で支えた象徴的なエリート家臣団である。
賤ヶ岳の戦いにおける軍功とメンバー
1582年の本能寺の変で織田信長が横死した後、その後継者の座を巡って羽柴秀吉と織田家筆頭宿老の柴田勝家が激突した。この決戦が1583年の賤ヶ岳の戦いである。この戦いにおいて、秀吉の近侍であり、幼少期から「子飼い」として育てられてきた若手武将たちが、先鋒として敵陣を深く切り崩すなど目覚ましい武功を挙げた。彼らのうち、福島正則、加藤清正、加藤嘉明、脇坂安治、平野長泰、糟屋武則、片桐且元の7人が後世に「賤ヶ岳の七本槍」として称えられるようになった。実際には彼ら以外にも同等以上の軍功を立てた武将はいたが、秀吉は自身の直臣の優秀さを世間に誇示し、織田家旧臣たちに対する求心力を高めるための政治的プロパガンダとして、彼ら7人を抜擢して大々的に恩賞を与え、その武名を喧伝したとされる。
豊臣政権での栄達と関ヶ原における決断
「七本槍」として名を馳せた彼らは、秀吉の天下統一事業が進展するにつれて大名へと取り立てられ、豊臣政権の強固な軍事的支柱へと成長した。特に加藤清正や福島正則、加藤嘉明らは朝鮮出兵(文禄・慶長の役)などで前線の主力として活躍し、それぞれ大領国を支配する有力大名となった。しかし、秀吉の没後は、政権の行政実務を担う石田三成ら「文治派」との対立が激化。この対立を利用した徳川家康の調略もあり、1600年の関ヶ原の戦いにおいては、多くが東軍(家康方)として参戦した。結果として秀吉直臣の「七本槍」の活躍が、豊臣宗家の弱体化と徳川幕府の誕生を決定づけることになった事実は、歴史の皮肉として深く語り継がれている。