慶長の役 (けいちょうのえき)
【概説】
1597年(慶長2年)から翌年にかけて行われた、豊臣秀吉による2回目の朝鮮出兵。文禄の役ののちに行われた明との講和交渉が決裂したため、秀吉が西国大名を中心に再び大軍を派兵して引き起こした戦争である。戦局が膠着状態に陥るなか、1598年の秀吉の病死を契機に日本軍は全面撤退し、足掛け7年に及ぶ文禄・慶長の役が終結した。
講和交渉の決裂と再出兵の経緯
1回目の朝鮮出兵である文禄の役(1592年〜)において、日本軍は当初破竹の勢いで進撃したものの、明の援軍の参戦や朝鮮水軍の抵抗により戦局は膠着した。そのため、日本の小西行長と明の沈惟敬らが中心となり講和交渉が開始された。しかし、双方が自軍の優位を前提としたため、交渉は実態と懸け離れた欺瞞的なものとなった。
豊臣秀吉は、明の皇女を天皇の后とすることや、朝鮮半島南部(四道)の割譲、日明貿易の復活など強気な講和条件を提示した。しかし、明側は秀吉を明の冊封体制下における「日本国王」に封じることで戦争を終わらせようと画策した。1596年(慶長元年)、明の使節が来日して秀吉に国書を読み上げた際、秀吉は自らの要求が一切受け入れられておらず、単に属国扱いされている事実を知って激怒した。これにより講和交渉は完全に決裂し、秀吉は翌1597年、諸大名に対して再度朝鮮への出兵を命じた。これが慶長の役である。
戦局の展開と防衛戦への移行
慶長の役における日本軍の作戦目標は、文禄の役のような「明への侵攻」ではなく、「全羅道を徹底的に制圧し、朝鮮半島南部(四道)を恒久的に領有化すること」へと縮小されていた。加藤清正、小早川秀秋、宇喜多秀家らを中心に約14万の軍勢が再び渡海した。
初期の作戦では、漆川梁海戦(しっせんりょうかいせん)で朝鮮水軍を壊滅させ、日本軍は全羅道から忠清道へと北上した。しかし、体勢を立て直した明・朝鮮連合軍の激しい抵抗に遭い、日本軍は南下を余儀なくされた。やがて作戦は、半島南岸に堅固な倭城(わじょう)を築き、そこに立てこもって敵の攻撃を防ぐ籠城戦へと移行していった。
特に1597年末から翌年初めにかけて起こった蔚山城の戦い(うるさんじょうのたたかい)では、未完成の城に籠城した加藤清正らが、極度の飢えと寒さの中で明・朝鮮の大軍の包囲を辛うじて耐え抜くという過酷な事態となった。また、海上で復帰した朝鮮水軍の将・李舜臣(りしゅんしん)によって制海権が脅かされ、日本軍は補給線の維持にも苦しむこととなった。
秀吉の死と過酷な撤退戦
戦線が完全に膠着するなか、1598年(慶長3年)8月、戦争の首謀者である豊臣秀吉が伏見城で病死した。秀吉の死は当初秘匿されたが、徳川家康や前田利家ら五大老を中心とする豊臣政権の首脳陣は、これ以上の戦争継続は不可能と判断し、朝鮮半島からの全軍撤退を決定した。
しかし、撤退作戦は極めて困難を極めた。撤退の動きを察知した明・朝鮮連合軍は、日本軍を海上で追撃した。1598年11月の露梁海戦(ろりょうかいせん)では、撤退を援護しようとした島津義弘らの水軍が連合軍と激突し、激しい損害を出しながらも血路を開いた。この戦いで敵将の李舜臣も戦死している。同年末までに日本軍は辛うじて帰国を果たしたが、多数の将兵が異国の地で命を落とし、得るもののない撤退戦となった。
歴史的意義と東アジア情勢への影響
文禄・慶長の役は、東アジアの国際秩序を根底から揺るがす歴史的事件であった。国内においては、出兵の主力として多大な軍役と経済的負担を強いられた西国大名たちが激しく疲弊した。同時に、朝鮮での戦闘をめぐって前線で戦った武断派(加藤清正、福島正則ら)と、後方支援や軍監を務めた文治派(石田三成ら)の対立が決定的なものとなった。この内部対立が、秀吉死後の豊臣政権崩壊と関ヶ原の戦いを引き起こす直接的な要因となり、出兵を免れて関東で国力を温存していた徳川家康の覇権確立を後押しすることとなった。
対外的には、戦場となった朝鮮半島に甚大な人的・物的被害をもたらし、日朝関係は断絶状態に陥った。のちに江戸幕府を開いた徳川家康が国交修復に尽力し、1607年の朝鮮通信使来日によってようやく国交が回復することとなる。また、撤退の際に西国大名たちが朝鮮から多くの優れた陶工を日本へ連れ帰った結果、有田焼や薩摩焼、萩焼など日本の陶磁器産業が飛躍的に発展した。この文化的影響から、文禄・慶長の役は別名「やきもの戦争」とも呼ばれている。