萩焼

豊臣秀吉の朝鮮出兵の際に毛利氏が連れ帰った朝鮮人陶工によって始められた、山口県の特産品である陶器は何か?
カテゴリ:
重要度
★★

萩焼 (はぎやき)

1604年~

【概説】
安土桃山時代末期の朝鮮出兵(文禄・慶長の役)の際、毛利氏が連れ帰った朝鮮人陶工によって長門国(山口県)で創始された陶器。関ヶ原の戦い後に毛利氏が萩へ移封されたことを機に藩の御用窯として開窯され、素朴で力強い伝統的技法を確立した。茶の湯の発展とともに「一楽二萩三唐津」と並び称され、多くの茶人に愛された日本を代表する陶芸文化である。

朝鮮出兵と西日本における陶芸の変革

豊臣秀吉による2度にわたる朝鮮出兵(文禄・慶長の役、1592〜1598年)は、政治的・軍事的には泥沼化して失敗に終わったものの、日本の文化、特に陶芸分野において決定的な転換点となった。出兵に参加した西日本の各大名は、高い技術を持つ朝鮮半島の陶工たちを日本へと連れ帰った。このことから、朝鮮出兵は別名「やきもの戦争」とも称される。

この時期に、薩摩焼(島津氏)や有田焼(鍋島氏)などと並び、毛利輝元によって連れてこられた李勺光(りしゃっこう)と李敬(りけい)の兄弟が、後の萩焼の祖となった。朝鮮半島の進んだ施釉陶器の技術が日本にもたらされたことで、それまで中世以来の素焼きや灰釉主体の素朴な製法にとどまっていた日本の窯業は、一気に近代的な産業・芸術へと急成長を遂げることとなった。

萩城下での開窯と藩の保護

1600年の関ヶ原の戦いで西軍の総大将となった毛利輝元は、戦後に防長2カ国(周防国・長門国)へと大幅に減封され、本拠地を広島から萩へと移して長州藩を立藩した。これに伴い、李氏兄弟も萩へと移り、1604年(慶長9年)に萩の東ノ瀬(現在の山口県萩市)に御用窯を築いた。これが萩焼の始まりである。

後に兄の李勺光が没すると、弟の李敬が窯を継ぎ、藩主より「坂高麗左衛門(さかこうらいざえもん)」の名を与えられた。萩焼は長州藩の強力な庇護のもとで、藩主の身の回りの品や他家への贈答用の茶器を焼く御用窯として独自の地位を確立した。江戸時代中期以降は、民間の窯(民窯)としても広く普及し、藩の重要な特産品・財源として保護・管理された。

「萩の七化け」と茶の湯における美意識

萩焼の最大の特徴は、原料である粘土の調合と、それによって生まれる独特の柔らかな土色、そして装飾を抑えた素朴な佇まいにある。大道土(だいどうつち)や見島土(みしまつち)をブレンドして作られる器は、焼き締まりが緩いため吸水性が高く、浸透性に優れている。

この性質により、長年使い込むことで茶の成分が器の微細な隙間に浸透し、表面の「貫入(かんにゅう)」(釉薬のひび割れ模様)を通して器の色合いが次第に渋い風合いへと変化していく。この独特の経年変化は「萩の七化け(はぎのななばけ)」と呼ばれ、「わび・さび」を重んじる茶人たちから絶大な支持を得た。茶の湯の格付けにおいて「一楽二萩三唐津(いちらく、にはぎ、さんからつ)」と称され、千利休以来の茶の湯の美学を現代に伝える重要な文化遺産となっている。

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最終更新:2026年6月17日 @ 23:49

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