かぶき者
【概説】
安土桃山時代から江戸時代初期にかけて流行した、常識外れの派手な服装や髪型をし、異端な振る舞いを好んだ人々。「傾く(かぶく)」という動詞に由来し、戦国時代の気風を受け継いだ彼らの独自の美意識と反骨精神は、のちの伝統芸能である歌舞伎の源流ともなった。
「かぶき」の語源と時代背景
「かぶき者」の語源である「傾く(かぶく)」とは、本来「斜めに傾く」ことを意味する動詞であり、そこから転じて「常軌を逸する」「異端を好む」といった意味合いを持つようになった。この言葉が指し示す通り、かぶき者とは、社会の常識や秩序からあえて逸脱しようとする人々の集団であった。
彼らが歴史の表舞台に登場したのは、16世紀末の安土桃山時代から17世紀前半の江戸時代初期にかけての時期である。戦国時代の長きにわたる戦乱が終息に向かい、豊臣政権から江戸幕府へと新たな社会秩序が形成されつつある過渡期において、行き場を失った浪人や下級武士、あるいは都市の若者たちが、鬱屈したエネルギーを過激なファッションや反社会的な行動によって発散させたのが「かぶき者」流行の背景にあった。
異端の美意識と反体制的な振る舞い
かぶき者たちの最も顕著な特徴は、その異風・異装である。彼らは女性の着物である派手な小袖を羽織り、動物の毛皮を用いた装具を身につけ、常識外れに長い大太刀や朱塗りの鞘を見せびらかして歩いた。また、髪型も通常の髷(まげ)を結わず、茶筅髪(ちゃせんがみ)にしたり髭を伸ばし放題にしたりするなど、当時の身分規範に真っ向から反抗するスタイルを好んだ。
行動面においても、彼らは男伊達(おとこだて)を気取り、徒党を組んで辻斬りや喧嘩闘争に明け暮れた。彼らは権力や法を嘲笑し、仲間内の「信義」や「意地」のためならば命を捨てることも辞さなかった。こうした反体制的・反社会的な態度は、幕藩体制という強固な身分制秩序を築き上げようとする為政者にとって、極めて危険で不穏な存在と映った。
武将たちにおける「かぶき」
かぶき者は単なる街の不良集団にとどまらず、時の武将たちの中にもその気風を体現する者が存在した。代表的な人物として、上杉家に仕えた前田利益(慶次郎)や、小早川家などに仕えた美男の誉れ高い名古屋山三郎(なごやさんざぶろう)などが挙げられる。
彼らは戦国武将としての高い武勇を持ちながらも、己の美意識を貫き、権力者に媚びない自由奔放な生き方を貫いた。武家社会においても、「かぶき」は一種の美学や男の矜持として、一部で称賛や共感を集める側面があったのである。
幕府の弾圧と「歌舞伎」への昇華
江戸幕府の支配が安定期に入り、武断政治から文治政治への移行が図られるようになると、社会の安寧を乱すかぶき者に対する弾圧は激しさを増した。幕府はたびたび禁令を出して派手な服装や徒党を組むことを禁じ、17世紀半ば以降、旗本奴(はたもとやっこ)や町奴(まちやっこ)と呼ばれた彼らの後継者たちも厳しく取り締まられたことで、社会集団としてのかぶき者は次第に姿を消していった。
しかし、かぶき者たちが放った強烈なエネルギーと美意識は、文化の領域で永遠の命を得ることになる。1603(慶長8)年、出雲阿国(いずものおくに)が京都で始めた「かぶき踊り」は、男装した阿国がかぶき者の異装や伊達な振る舞いを舞台上で模倣したものであり、これが民衆の爆発的な人気を博した。このかぶき踊りこそが、のちに日本を代表する伝統芸能となる歌舞伎の直接的な起源である。社会の異端児であった彼らの反骨精神は、芸能という形で江戸時代の町人文化へと受け継がれていったのである。