女歌舞伎

出雲阿国が始めた歌舞伎踊りをもとに、遊女などが三味線に合わせて演じたが、のちに風紀上の理由で幕府に禁止された芸能を何というか?
カテゴリ:
重要度
★★★

女歌舞伎

1603年頃〜1629年

【概説】
安土桃山時代から江戸時代初期にかけて流行した、主に女性(遊女)を中心として演じられた初期の歌舞伎。出雲阿国が創始した阿国歌舞伎から発展し、都市部の大衆や武士の間で熱狂的な人気を集めたが、風紀紊乱を理由に江戸幕府によって全面的に禁止された。

阿国歌舞伎の誕生と影響

慶長8年(1603年)頃、出雲大社の巫女を名乗る出雲阿国(いずものおくに)が、京都の四条河原などで「かぶき踊り」を披露したことが歌舞伎の起源とされている。男装した阿国が茶屋の女と戯れるという演目は、当時の反体制的な異端の風俗であった「傾奇者(かぶきもの)」の美学を取り入れたものであり、その斬新さとエロティシズムは爆発的な人気を博した。この阿国歌舞伎の熱狂的な大流行が、後の女歌舞伎へと繋がる直接的な契機となったのである。

遊女歌舞伎としての発展と熱狂

阿国歌舞伎の成功を受け、またたく間にその模倣が始まった。特に各地の遊女屋がこれを客寄せの興行として大々的に取り入れたことで、女歌舞伎(遊女歌舞伎)という形態が確立する。新興の楽器であった三味線を伴奏に用い、華やかな衣装をまとった遊女たちが官能的な集団舞踊を披露するこの興行は、京都のみならず大坂や江戸などの主要都市に瞬く間に広まった。

当時は戦国時代の気風が色濃く残る時代であり、身分にとらわれない享楽的な大衆文化が花開こうとしていた。女歌舞伎はそうした社会のエネルギーの受け皿となり、庶民から武士層に至るまで幅広い階層を熱狂の渦に巻き込んだのである。

江戸幕府による弾圧と全面禁止

しかし、女歌舞伎の流行は同時に深刻な社会問題を引き起こした。演じているのが遊女であったため、舞台の興行と売春が密接に結びついており、贔屓の遊女をめぐって客の武士や町人による刃傷沙汰や喧嘩が絶えなかったのである。また、武士が身分を忘れて遊女や役者に入れ込むことは、新たに成立した江戸幕府が目指す儒教的な身分秩序や治安維持の観点から到底看過できるものではなかった。

幕府は風紀紊乱の温床となっているとして再三の規制を行ったが効果は薄く、最終的に寛永6年(1629年)、女性が芸能の舞台に立つことを全面的に禁止する強硬措置に踏み切った。これにより、約四半世紀にわたって一世を風靡した女歌舞伎は歴史の表舞台から姿を消すこととなった。

歌舞伎の変遷における歴史的意義

女歌舞伎の禁止は、日本の演劇史において極めて重要な転換点となった。女性が舞台に立てなくなった結果、歌舞伎は美少年の男役が演じる若衆歌舞伎(わかしゅかぶき)へと移行した。しかし、これも男色(衆道)の対象となって風紀を乱すとして、承応元年(1652年)に禁止の憂き目に遭う。

その後、前髪を剃り落とした成年男子のみが演じる野郎歌舞伎(やろうかぶき)へと形態を変えることで、ようやく幕府の公認を得ることになる。容姿や官能性に頼ることができなくなった役者たちは、純粋な演技力や複雑な筋立て(狂言尽くし)を追求するようになり、これが現在の伝統芸能としての歌舞伎の基礎を築くこととなった。女歌舞伎は短命に終わったものの、歌舞伎という日本を代表する芸能が高度な「演劇」として洗練されていくための、不可欠な通過点であったといえる。

歌舞伎の歴史 (岩波新書 新赤版 661)

歌舞伎の成立から明治以降の変遷までを体系的に網羅し、日本芸能の深淵なる歴史を紐解く格好の入門書。

江戸歌舞伎文化論

芝居小屋の構造や観客の気質など、江戸の町人文化が色濃く反映された歌舞伎の魅力を論理的に解明する一冊。

最終更新:2026年6月17日 @ 23:49

日本史一問一答(ランダム)

Q. 契沖の影響を受けて古典研究を進め、8代将軍徳川吉宗に対して「創学校啓」を提出し、国学を教授する学校の設立を建言した国学者は誰か?
Q. 関ヶ原の戦いで東軍の勝利に大きく貢献し、筑前福岡藩の初代藩主となった黒田官兵衛の子は誰か?
Q. 6世紀に百済の五経博士によって伝えられ、のちの律令国家の道徳的・政治的基盤に影響を与えた中国の学問(思想)は何か?