藤島城の戦い
【概説】
1338年(延元3年/建武5年)、越前国藤島において南朝の総大将・新田義貞と北朝の斯波高経らの軍勢との間で戦われた戦闘。この戦いで義貞が戦死したことにより、南朝の北陸における組織的抵抗は事実上瓦解した。同年の北畠顕家の戦死と並び、初期南北朝内乱の趨勢を決定づけた重要な一戦である。
越前をめぐる攻防と藤島城の対立
建武の新政崩壊後、足利尊氏に対抗して吉野に南朝が樹立されると、新田義貞は後醍醐天皇の皇子である恒良親王や尊良親王を奉じて北陸地方へと下向した。北陸を本拠地として力を蓄え、京都を奪還せんとする戦略であった。これに対し、室町幕府(北朝方)は越前国守護の斯波高経を派遣し、両者は激しい一進一退の攻防を繰り広げた。
金ヶ崎城(福井県敦賀市)の落城と両親王の死という悲劇に見舞われながらも、義貞は越前の豪族や平泉寺の僧兵などを味方に引き入れ、勢力を再建した。そして、北朝方の拠点であった藤島城(福井市藤島町)を包囲し、斯波高経を精神的に追い詰めていった。
燈明寺畷の遭遇戦と義貞の最期
1338年(延元3年/建武5年)閏7月2日、藤島城を包囲していた味方の軍勢が苦戦しているとの報を受けた新田義貞は、自ら救援に向かうため、わずか50騎ほどの軽装の兵を率いて督戦に赴いた。しかし、その途上の燈明寺畷(現在の福井市新田塚)において、突如として斯波方の細川出羽守らの部隊約300騎と遭遇し、予期せぬ激しい交戦状態となった。
雨上がりのぬかるんだ泥田に馬の足を取られた義貞の部隊は、圧倒的多数の敵軍から激しい矢の雨を浴びせられた。義貞は退却を促す部下の進言を退けて戦い続けたが、馬を射倒されて身動きが取れなくなったところを、眉間に矢を受けて致命傷を負った。義貞は最期を悟り、自ら自身の首をはねて自害したと伝えられている(『太平記』による)。
南朝の二大支柱喪失と歴史的意義
藤島城の戦いにおける新田義貞の戦死は、南朝にとって極めて致命的な打撃となった。この戦いのわずか2ヶ月前の1338年5月には、陸奥国から遠征して幕府軍を脅かしていた南朝のもう一人の最高指揮官・北畠顕家が石津の戦い(大阪府堺市)で敗死したばかりであった。
軍事面における二大巨頭を相次いで失った南朝は、これ以降、総大将としての強力な指導者を欠くこととなり、軍事的な主導権を完全に失った。結果として、足利尊氏による室町幕府の支配権がいっそう強固なものとなり、南北朝の争いは南朝側の劣勢のまま長期化していくこととなる。