足利義持

義満の跡を継いで第4代将軍となり、朝貢の形式を嫌って日明貿易(勘合貿易)を一時的に中断した人物は誰か?
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重要度
★★

足利義持 (あしかがよしもち)

1386〜1428年

【概説】
室町幕府の第4代征夷大将軍。強大な権力を誇った第3代将軍足利義満の嫡男であり、父の没後に本格的な政務を執ると、その専制的な政策を大きく転換した。特に明への朝貢外交の中断や朝廷との適度な距離の維持など、独自の保守的・協調的な幕政を展開したことで知られる。

父・義満の遺産の否定と「日本国王」尊号の辞退

足利義持の政治的態度の多くは、偉大すぎる父・足利義満との相克、およびその政治路線の否定(「義満政治の否定」)という文脈から理解することができる。義満は晩年、義持の異母弟である義嗣を溺愛し、義持との関係は冷え切っていたとされる。1408年に義満が急逝すると、義持は実権を掌握し、義満が進めた急速な権力集中と朝廷超越の動きに急ブレーキをかけた。

その象徴的な出来事が、朝廷から義満に対して贈られた「太上天皇(上皇)」の尊号の辞退である。義持は守護大名や公家衆の意見を容れ、朝廷の秩序を乱すような義満の皇位簒奪的とも映る動きを明確に否定した。また、義満が造営した華美な北山殿(金閣)から、自らは質素な三条坊門殿へと移り住むなど、将軍の政治姿勢が謙抑的なものへと戻ったことを周囲にアピールした。

日明貿易(勘合貿易)の一時中断

外交面における最大の転換は、1401年から義満によって開始されていた日明貿易(勘合貿易)の進んで行われた中断である。明の永楽帝から「日本国王」に冊封(臣下としての承認)され、臣下の礼をとる形で朝貢貿易を行うことは、日本の君臣の義(国体)に反するというのが義持の立場であった。

1411年、明からの使節が来日した際、義持は国書の受け取りを拒絶し、明との国交および貿易を一時断絶した。この貿易中断は義持の治世を通じて続き、再開されるのは義持の死後、第6代将軍足利義教の代になってからのことである。一方で、義持は東アジア通交そのものを拒絶したわけではなく、李氏朝鮮琉球王国とは使節の往来を続け、国内の倭寇を取り締まることで近隣諸国との平和的関係の構築に努めた。

有力守護大名との協調と幕政の安定

義持は父のような独裁的な政治手法を避け、管領(斯波氏、細川氏、畠山氏)や三管領・四職に代表される有力守護大名との協調体制(合議制)を重視した。これにより、義満期に弾圧され不満を募らせていた守護大名たちの反発を和らげ、室町幕府の体制を内政面から強固に安定化させることに成功した。

一方で、幕府の権威を脅かす存在に対しては断固たる態度で臨んだ。関東において鎌倉府の権力が拡大し、1416年に上杉禅秀の乱が勃発すると、これを鎮圧。さらに、異母弟であり自身に反抗的であった足利義嗣を殺害するなど、必要に応じて冷徹な実力行使を行い、将軍権力の維持を図った。義持の20年以上にわたる安定した治世は、室町幕府の政治秩序が「将軍と守護大名の連合政権」として制度的に成熟していく重要な過渡期であったと言える。

室町幕府論 (講談社学術文庫 2767)

権力構造の変遷を多角的な視点から精緻に解き明かし、混迷の時代を生き抜いた室町幕府の真の姿に迫る学術的力作。

足利義持:累葉の武将を継ぎ、一朝の重臣たり (ミネルヴァ日本評伝選)

父・義満の影に隠れがちな四代将軍の実像を再考し、禅宗文化の擁護や平和維持に尽力したその統治の本質を問う評伝。

最終更新:2026年6月17日 @ 23:49

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