御料所 (ごりょうしょ)
【概説】
室町幕府における将軍の直轄地のこと。全国に約200カ所存在し、主に将軍直属の軍事力である奉公衆などが代官として管理し、幕府へ年貢を納めた。
室町幕府の経済基盤としての規模
御料所は、鎌倉幕府における「関東御領」や、後の江戸幕府における「天領(幕府御料)」に相当する将軍直轄の所領である。室町幕府の御料所は、足利氏の父祖伝来の地である三河国や下野国足利荘などの本領に加え、建武の乱や南北朝の内乱期に没収された敵対勢力の所領(闕所地)などを組み込む形で形成されていった。
しかし、その数は全国で約200カ所(一説には約220カ所)にとどまり、鎌倉幕府の関東御領(約500カ所)や、江戸幕府の圧倒的な直轄地(約400万石)と比較すると極めて小規模であった。この直轄地の少なさは、室町幕府の脆弱な財政基盤を象徴するものであり、幕府が諸国の支配を守護大名に依存せざるを得なかった大きな一因となっている。直轄地からの年貢収入だけでは幕府の運営が立ち行かなかったため、室町幕府は京都の富裕な業者から徴収する土倉役・酒屋役といった商業課税や、段銭・棟別銭などの臨時課税に財源を大きく依存することとなった。
奉公衆による管理体制と政治的意義
御料所の多くは、将軍の親衛隊であり直属の家臣団である奉公衆(ほうこうしゅう)に管理が委ねられていた。奉公衆は御料所の代官に任命され、現地の支配と年貢の徴収にあたった。彼らは徴収した年貢の一部を自らの給与(得分)とし、残りを幕府の財政機関である政所(まんどころ)へ納入する請負制(代官請)がとられていた。
この管理体制は、将軍の軍事的な中核を担う奉公衆を経済的に支える役割を果たすと同時に、地方において強大な権力を持つ守護大名に対する牽制(けんせい)の意図も含まれていた。諸国に点在する御料所は原則として守護の管轄外(不入の地)とされ、奉公衆は将軍の権威を背景に現地で独立した権力を行使した。これにより将軍は、地方における守護大名の権力独占を防ごうとしたのである。
応仁の乱以降の衰退と解体
室町時代前期から中期にかけて、足利義満や足利義教などの専制的な将軍の下では御料所の維持・拡大が図られ、幕府の権威を下支えしていた。しかし、1467年に勃発した応仁の乱を契機に幕府の権威が失墜すると、全国に散在する御料所の維持は極めて困難となった。
戦国時代に突入すると、各国の御料所は在地の国人領主や守護大名、さらには台頭してきた戦国大名によって次々と横領・押領されていった。代官であった奉公衆も現地の支配権を失って没落するか、あるいは自ら在地領主化していく中で、幕府への年貢納入は完全に途絶えることとなる。御料所という最低限の確固たる経済基盤すら失った室町幕府は、もはや将軍の権力を維持することができなくなり、やがて1573年の織田信長による足利義昭の追放をもって名実ともに滅亡の道を辿ったのである。