足利持氏

上杉禅秀の乱を乗り切ったのち、将軍位を望むなどして京都の幕府と対立を深め、永享の乱で足利義教に討伐された鎌倉公方は誰か?
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重要度
★★

足利持氏 (あしかがもちうじ)

1398年〜1439年

【概説】
室町時代中期の第4代鎌倉公方。京都の室町幕府、特に第6代将軍足利義教と激しく対立し、東国における自立化と将軍職への野心を燃やした。最後は、幕府と結んだ関東管領の上杉憲実らに攻められ、永享の乱において自害に追い込まれた。

鎌倉公方と室町幕府の確執

足利持氏が系譜に位置する鎌倉公方(関東公方)は、室町幕府の初代将軍・足利尊氏が、東国支配のために次男の基氏を鎌倉に派遣したことに始まる。鎌倉公方を補佐する関東管領(上杉氏が世襲)とともに関東地方を統治していたが、独自の軍事力と経済力を背景に、次第に京都の幕府から自立する傾向を強めていた。

持氏が第4代鎌倉公方に就任すると、幕府との対立は決定的なものとなった。第4代将軍・足利義持が後継者を定めずに没した際、持氏は自身が次の将軍に選ばれることを強く望んでいたとされる。しかし、京都で「くじ引き」によって第6代将軍に選ばれたのは、義持の弟である足利義教であった。持氏はこの決定に不満を抱き、義教の将軍就任を認めず、京都の改元(永享への改元)を無視して「正長」の元号を使い続けるなど、露骨な反抗態度を示した。

永享の乱と鎌倉府の崩壊

将軍権力の強化と専制政治を進める足利義教は、反抗的な持氏を排斥する機会を狙っていた。鎌倉府内部でも、京都の幕府との融和を主張し、持氏の強硬姿勢を諫めていた関東管領の上杉憲実が、持氏に暗殺される危機を感じて上野国(群馬県)へと逃亡する事態が発生した。

持氏が憲実を討つために兵を動かすと、将軍義教はこれを幕府に対する反逆とみなし、朝廷から持氏討伐の治罰綸旨(追討令)を得た。1438年、幕府軍と上杉憲実の連合軍は鎌倉へと進撃し、持氏の軍勢を圧倒した(永享の乱)。孤立した持氏は、翌1439年に鎌倉の永安寺において自害を余儀なくされ、ここに鎌倉公方はいったん滅亡することとなった。

持氏の死が関東に与えた歴史的影響

持氏の死によって関東の混乱が収束することはなかった。翌1440年には、持氏の遺児(春王丸・安王丸)を擁立した結城氏朝が幕府に対して挙兵する結城合戦が発生した。この反乱も幕府軍によって鎮圧され、遺児たちは処刑されたが、後に持氏の末子である足利成氏が鎌倉公方に復興されることとなる。

しかし、成氏もまた上杉氏や幕府と激しく対立し、後に享徳の乱を引き起こして古河公方へと逃れることとなった。持氏の時代に決定的となった幕府・上杉氏と鎌倉公方との対立構造は、京都の応仁の乱に先駆けて、東国を長い戦国時代へと突入させる契機となったのである。

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鎌倉府体制と東国

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最終更新:2026年6月17日 @ 23:49

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