上方漁法 (じょうほうぎょほう)
【概説】
江戸時代に畿内(上方)や紀伊・播磨などの先進的漁民によって開発され、全国各地へ普及した高度な漁法。地引網や揚繰網(あぐりあみ)などの大規模な網漁を中心とし、日本の漁業をそれまでの自給的なものから商業的なものへと大きく変貌させた画期的な技術体系である。
商品作物栽培の拡大と「干鰯」需要の急増
江戸時代、特に17世紀後半の元禄期以降、農村では租税(年貢)の対象となる米以外に、綿花、菜種、タバコなどの商品作物の栽培が盛んになった。なかでも畿内や瀬戸内海沿岸で盛んに行われた綿作は、きわめて高い吸肥力を持つ作物のため、大量の有機質肥料を必要とした。これに応えたのが、鰯(いわし)を乾燥させて作られた強力な金肥(市販の肥料)である干鰯(ほしか)や、鰯を煮て油を絞った残渣である鰊(にしん)粕・鰊肥であった。
干鰯の需要が急速に高まると、大坂を中心とする上方市場には莫大な利益をもたらす鰯の需要が生まれ、これを目当てとした商業的漁業が発達することとなった。より効率的に、そして大量に魚を捕獲する必要性が生じたことが、上方漁法と呼ばれる技術革新の背景にある。
多様な網漁の開発と「九十九里浜」への伝播
上方漁法の中核をなしたのは、大規模で複雑な構造を持つ網漁の技術である。それまでの伝統的な漁法は、一本釣りや小規模な固定網などが主流であったが、上方漁民は魚群の動きを予測し、複数の船で協同して追い込む揚繰網や、沿岸で大規模に展開する地引網、潮流を利用する八艘張網(はっそうばりあみ)などを編み出した。これにより、一度に大量の獲物を得ることが可能となった。
この先進的な技術は、上方漁民の出稼ぎや移住を通じて全国へと伝播した。代表的な事例が、紀伊(現在の和歌山県)の漁民が関東の九十九里浜(千葉県)に進出して伝えた地引網による鰯漁である。九十九里浜で漁獲された膨大な鰯は、現地で干鰯に加工され、江戸や上方の綿作地帯へと出荷された。さらに、土佐の鰹漁における鰹節製造技術や、東北・蝦夷地(北海道)における鰊漁などにも上方の資本や技術が流入し、日本全国の沿岸部に「商品生産としての漁業」が定着する契機となった。
漁業の資本主義化と漁村社会の変容
上方漁法の導入は、単なる技術的な変化にとどまらず、漁村の社会構造にも大きな変革を迫った。大規模な網漁を行うには、巨大な網の製造・購入費用や、数十人から数十人の労働者を組織するための莫大な資金が必要となる。そのため、漁村内部では資金を提供する網主(あみぬし)と呼ばれる富裕層と、彼らに雇われて実際の労働に従事する網子(あみこ)と呼ばれる労働者層の階層分化が進んだ。
また、先進的で効率的な上方漁法が地方に流入することは、在来の小規模な地元の漁民との間に激しい対立を引き起こす原因ともなった(いわゆる漁場相論)。幕府や藩は、これら「新網」の参入を制限しつつも、そこから得られる莫大な運上金(税)を財源とするため、徐々に公認していく方向をとった。このように、上方漁法は江戸時代の全国的な商品経済網の発展と、地方社会の構造変革に決定的な役割を果たしたのである。