ワシントン海軍軍縮条約(主力艦制限条約)
【概説】
ワシントン会議において、アメリカ・イギリス・日本・フランス・イタリアの5か国間で締結された海軍の軍備制限条約。各国の主力艦(戦艦・巡洋戦艦)保有総トン数の上限と比率を定め、向こう10年間の新規建造禁止を取り決めた。
条約締結の背景とワシントン会議
第一次世界大戦終結後、戦勝国となった日本・アメリカ・イギリスの間では、太平洋における覇権をめぐって熾烈な建艦競争が展開されていた。日本では戦艦8隻・巡洋戦艦8隻を中核とする八八艦隊計画が推進され、アメリカもダニエルズ・プランに基づく大艦隊の建造を進めていた。しかし、これら巨額の軍事費は各国の国家財政を著しく圧迫し、国民生活にも深刻な影響を及ぼし始めていた。このような背景のもと、1921年(大正10年)にアメリカ大統領ハーディングの提唱により、極東・太平洋問題と軍備制限を討議するワシントン会議が開催され、その最重要議題として海軍の軍縮が話し合われた。
条約の具体的な内容と保有比率
会議の結果、1922年に米・英・日・仏・伊の5か国間で締結されたのがワシントン海軍軍縮条約(主力艦制限条約)である。本条約では、各国の主力艦(戦艦および巡洋戦艦)の保有総トン数の上限と比率が定められた。具体的には、アメリカとイギリスがそれぞれ50万トン強(比率5)、日本が31万5000トン(比率3)、フランスとイタリアがそれぞれ17万5000トン(比率1.67)と規定された。また、向こう10年間は新たな主力艦の建造を禁止する、いわゆる「海軍休日(ネイバル・ホリデー)」が設けられた。日本海軍は対米英7割を主張していたが、米英の強硬な姿勢により6割に甘んじることとなった。その代償として、太平洋地域の島々における米英の新たな海軍基地建設や要塞化の禁止が取り決められ、日本の安全保障上の懸念に一定の配慮がなされた。
日本国内への影響と新たな建艦競争
この条約の締結により、日本は莫大な国家予算を要していた八八艦隊計画の放棄を余儀なくされ、建造中であった戦艦「加賀」や巡洋戦艦「赤城」などは航空母艦(空母)への改装を図ることとなった。一方で、建艦競争のストップは当時の切迫した日本の国家財政を救済し、軍事費の削減分を産業や社会インフラに回すことができたという点で、経済的に大きな意義があった。しかし、日本海軍の内部では、条約を推進・容認する条約派と、対米6割に不満を抱き条約に反対する艦隊派との間で深刻な対立が生じた。さらに、主力艦の建造が制限された結果、制限外であった巡洋艦や駆逐艦、潜水艦などの「補助艦」の建造競争へと各国がシフトしていくこととなる。
条約の歴史的意義と崩壊への道
ワシントン海軍軍縮条約は、世界の主要な海軍国が合意した史上初の本格的な軍縮条約であり、1920年代における国際協調の象徴とも言えるワシントン体制の根幹をなした。この条約によって、太平洋における軍事的緊張は一時的に緩和された。しかし、先述した補助艦の建艦競争問題を解決するために1930年(昭和5年)にロンドン海軍軍縮条約が結ばれると、日本国内では統帥権干犯問題が発生するなど、軍部の政治介入が顕著になる。最終的に、満州事変以降に国際的な孤立を深めた日本は、1934年(昭和9年)に本条約の廃棄を通告し、1936年に条約は失効した。これにより「海軍休日」は終わりを告げ、世界は再び無条約の軍拡時代へと突入し、第二次世界大戦への道を歩むこととなった。