足利義視 (あしかがよしみ)
【概説】
室町幕府第8代将軍・足利義政の弟であり、応仁の乱における主要人物の一人。義政の後継者に指名されながらも、のちに誕生した義政の実子・義尚との間で将軍後継争いが生じ、幕府を二分する大乱の契機となった。
還俗と将軍後継をめぐる政変
足利義視は1439年、第6代将軍・足利義教の息子として生まれた。幼少期に仏門に入り浄土寺の門跡(妙尊)となっていたが、実子のいなかった兄・足利義政の懇請により、1464年に還俗して義視と名乗り、次期将軍候補となった。この際、義視は将来義政に男児が誕生した場合のトラブルを懸念したが、義政は誓紙を認めてこれを生涯保証し、有力守護大名の細川勝元を義視の後見人に据えた。
しかし、翌1465年に義政の正室・日野富子が実子である足利義尚(春王)を出産したことで、状況は激変する。富子は我が子を将軍に据えるべく、有力守護の山名宗全(持豊)に接近し、将軍後継問題は幕府を揺るがす深刻な政治対立へと発展していった。
応仁の乱の勃発と陣営の「ねじれ」
畠山氏や斯波氏の家督争いなども複雑に絡み合い、1467年に応仁の乱が勃発する。当初、義視は後見人である細川勝元率いる「東軍」に擁立され、山名宗全率いる「西軍」と対峙した。しかし、将軍・義政の側近である伊勢貞親らが義視の排除を画策したことなどから、義視の立場は極めて不安定なものとなった。
義政や富子との関係悪化に危機感を募らせた義視は、比叡山や伊勢へと逃亡した末、最終的に敵対勢力であったはずの西軍へと奔ることとなる。これにより、東軍が将軍・義政と義尚を奉じ、西軍が義視を「新将軍」として仰ぐという、主客転倒した「ねじれ現象」が生じ、戦乱は泥沼化の一途をたどった。
乱後の美濃下向と執念の将軍擁立
1477年に応仁の乱が終結すると、義尚が第9代将軍に就任したため、居場所を失った義視は守護の土岐成頼を頼って美濃国へ下向し、逼塞を余儀なくされた。
しかし、義視は野心を失わなかった。1489年に将軍・義尚が近江の陣中で病死し、翌1490年に兄・義政も没すると、義視は宿敵であった日野富子と和解することに成功。自らの息子である足利義材(後の義稙、第10代将軍)を将軍に就任させることに成功した。義視自身は自ら大御所として実権を握り、政務を執ったが、その翌年の1491年に激動の生涯を閉じた。彼の存在と一連の後継争いは、室町幕府の権威を失墜させ、戦国時代へ突入する決定的な要因となった。