日野富子
【概説】
室町幕府第8代将軍・足利義政の正室(御台所)。実子である足利義尚の将軍就任を画策して山名宗全らと結び、応仁の乱が勃発する一因を作った人物。戦乱期においては独自の経済感覚で巨万の富を築き、傾いた幕府財政を私財で支えるとともに、長きにわたり幕政に強い影響力を及ぼし続けた。
名門日野家からの入内と将軍家の後継者問題
日野家は公家の中でも、代々室町幕府の将軍家に正室を送り込む家柄であった。富子も1455年(康正元年)に第8代将軍・足利義政の正室となる。夫婦関係は当初円満であったが、なかなか男子の継嗣に恵まれなかったため、義政は1464年(寛正5年)に浄土寺に入室していた弟を還俗させて足利義視とし、次期将軍に指名した。この際、義視の後見人として有力守護大名である管領の細川勝元がつけられた。
ところが翌1465年、富子は待望の男子である足利義尚を出産する。我が子を将軍の座に就けたいと強く願望した富子は、細川勝元と対立関係にあった有力守護大名の山名宗全(持豊)に接近し、義尚の後見を依頼した。これにより、将軍家内部での「義視派」と「義尚派」の対立構造が決定的なものとなったのである。
応仁の乱の勃発と類まれな経済活動
将軍家の後継者問題は、同時期に発生していた畠山氏や斯波氏といった管領家の家督争いと複雑に絡み合い、全国の守護大名を二分する大乱へと発展した。これが1467年(応仁元年)に勃発した応仁の乱である。細川勝元率いる東軍(義視を支持)と、山名宗全率いる西軍(義尚を支持)は京都を主戦場として激しく激突した。旧来の歴史観では富子はこの大乱を引き起こした「元凶」とされがちだが、実際には義政の優柔不断な政治姿勢や、大名間の激しい権力闘争が根本的な原因であった。
戦乱によって京都が焦土と化し、幕府の権威と財政が根底から崩れ去っていく中、富子は独自の才覚を発揮する。彼女は単に将軍の妻や母として振る舞うだけでなく、東西両軍の諸将に対して高利で軍資金を貸し付けたり、米の投機を行ったりすることで莫大な利益を上げた。この時代において、これほどまでに強烈な経済感覚を持ち、自らの手で巨万の富を築き上げた女性は極めて特異な存在であった。
幕政の主導と土一揆の頻発
1473年(文明5年)、山名宗全と細川勝元が相次いで病死し、義政が将軍職を辞して隠居すると、わずか9歳の義尚が第9代将軍に就任した。義政が東山文化の形成など風雅の世界に逃避していく一方で、富子は幼い将軍の後見人として実質的に幕政を主導するようになる。1477年(文明9年)に応仁の乱が終結した後も、富子の権力は衰えなかった。
富子は崩壊した京都の復興や内裏の修繕、幕府財政の穴埋めを行うため、京都の出入り口に七口の関(京都七口)と呼ばれる関所を設け、通行税(関銭)を徴収した。しかし、この重税は民衆の激しい怒りを買い、関所の撤廃や徳政令を求める土一揆(山城の国一揆など)を頻発させる原因となった。また、成長した義尚は母の度重なる政治干渉を嫌悪するようになり、晩年の親子関係は冷え切ったものとなっていった。
晩年の権力闘争と近年の歴史的評価
1489年(長享3年)、義尚が六角氏討伐の陣中(近江)で病死し、さらに1490年に義政もこの世を去ると、かつて富子と対立した足利義視の子である足利義材(後の義稙)が第10代将軍に就任した。富子の政治的影響力はこれで失われるかに見えたが、彼女は依然として強大な財力を背景に権力を維持した。1493年(明応2年)、義材との対立が深まると、富子は管領の細川政元と結託してクーデター(明応の政変)を起こし、義材を追放して足利義澄を第11代将軍に擁立した。これにより、富子は生涯にわたって幕府の最高権力層に君臨し続けたのである。
後世の軍記物や歴史書において、富子は「悪女」や「守銭奴」として極めて否定的に描かれてきた。しかし、近年の歴史学研究においては評価が見直されつつある。彼女が蓄えた莫大な私財は、結果的に朝廷の儀式の復興や幕府の存続を支える生命線となっており、室町幕府崩壊の危機において実務を担った「有能な政治家」としての側面が正当に評価されるようになっている。