大蔵経(一切経) (だいぞうきょう(いっさいきょう)
【概説】
仏教の聖典である経・律・論の三蔵を網羅した経典の全集。奈良時代に遣唐使僧の玄昉が唐から将来したことで、日本仏教の教理研究や国家仏教の整備に決定的な影響を与えた。天平文化における国家的な写経事業の土台となった重要な文化的遺産である。
仏教聖典の集大成としての「大蔵経(一切経)」
大蔵経(一切経とも呼ばれる)とは、仏教の開祖である釈迦の説法を記録した「経」、教団の生活規則や戒律を定めた「律」、それら経・律に対する後世の注釈や学説をまとめた「論」の三蔵(さんぞう)を中心に、仏教関連の文献を体系的に網羅した一大叢書(全集)である。古代中国において、インドから伝来したサンスクリット語の仏典が組織的に漢訳され、歴代王朝の公認のもとに整理・編纂されたことで、漢訳大蔵経として成立した。これは単なる宗教的な聖典にとどまらず、当時の東アジア世界における最先端の哲学・思想・文化が凝縮された学術的な知の結晶でもあった。
玄昉による将来と天平社会への影響
日本においてこの大蔵経が体系的に受容される決定的な画期となったのが、奈良時代の735年(天平7年)、遣唐使に伴って帰国した僧・玄昉(げんぼう)による将来である。唐に18年間留学し、玄宗皇帝から厚い信頼を得ていた玄昉は、唐朝から下賜された「一切経」5000余巻(およそ5048巻とされる)を日本に持ち帰った。これ以前の飛鳥時代などにも部分的な経典の導入は行われていたが、体系化された大蔵経が一括して日本にもたらされたのはこれが初めてであり、当時の日本の知識層や統治者に計り知れない思想的・文化的衝撃を与えた。
鎮護国家の象徴としての写経事業と教理研究
玄昉がもたらした一切経は、聖武天皇が進めた鎮護国家(仏教の力で国家の安泰を図る思想)の政策と深く結びついた。朝廷は、災異の回避や国家の平穏を祈願するため、これらの経典を大量に複製する「写経」を国家事業として強力に推進した。これにより、官立の写経所(大安寺や東大寺など)が整備され、専門の写経生たちが組織的に一切経の書写に携わった。この写経事業は、天平文化における洗練された書道や仏教美術の形成を促す原動力となった。また、大蔵経の整備によって、奈良の学問僧たちは体系的な教理研究(教学)を進めることが可能となり、南都六宗に代表される日本仏教の学問的基礎が確立されることとなった。